千と一匹の蝶
地面に胡坐をかいて座っている彼の足の震えはいまだ止まらず、広場からの脱出を拒ませる一つの要因となっていた。この広場がこれまでのどの広場とも違うからもっと知りたいという探求心とこの震えが彼を広場に留まらせた。その一方で、早く逃げなければ、早く逃げたいと考えているのも事実で、その相反する欲求を彼は持っていた。この広く平穏の広場で、ゆらゆらと咲いている花には蝶が四匹とまっている。その蝶の重さで花びらは曲げられ、茎から折れそうになっている。その四匹は同じ種類の蝶であるが、それぞれ微妙に模様が異なり、足の長さや顔つきも微妙に違っているのだが、少し遠くから見ている彼には判別することは不可能だった。けれども増えていることは間違いなく、その数がさっきの二匹から倍になっていることも気がかりだった。ここに来るまでの石の道で感じた焦りの度数は二乗に増えていた。この蝶の増え方はどうだろうか。もしこの蝶も二乗の法則で増えていくなら早くここを離れなければ。広い広場に両手でつかめるほどの太さの木が二本、突き刺さっているのを見つけた。特徴のないその二本の木を彼はこの広場の入り口だと思い込んだ。彼は自分がどこからこの広場に入ったのか、すでにわからなくなっていた。そもそもこの草で囲まれた広場とそれまでの道との境界線は曖昧なもので、人工の物ではないこの広場に入り口などないのだ。草と草の間を入り口と決めるのもよし、向こうにある木をそうするのもよし、つまり彼はこの自然物を強引に人工物に切り替えたのだ。それによって草が色を変え、木が動き出すといった大きな変化はなかったが、それまで自然的に、必然的に、彼の意志に反して増え続けていた蝶の増加を抑えることができたように感じた。そしてその変化は彼の限界への恐れを多少ではあるが抑え、彼の足の震えを止めた。その一瞬の体の緩みを幼い彼は見逃さなかった。体は半ば反射的に動き、あの二本の木に向かって走り出した。しびれていた足はなんとか動く程度で、走る姿は必至そのものだった。残りたいという感情を引きずりながら強引に走る。そこに何か使命感のようなものを感じていた。ここを離れて無限なる宇宙を楽しめと誰かに言われているように思える。踏みしめる草の音がそう聞こえるのかもしれない。この選択が正しいのか、それを知る人に会いたくなった。すなわちおじいさんだ。あの人は彼が知りたいことをきっと知っている。名前もわからない人物を欲する。
木と木の間を過ぎると、周りの風がぐるっと渦を巻いた。吹いてくる風によって彼の短い髪がさっと揺れる。その爽やかな風が作り出した渦の中心で彼は息苦しさを感じた。海で溺れている、そういう息苦しさではない。周りを何かで圧迫されている、そんなものだ。するとその渦は彼の背中のほうに移っていき、次第にその中心を木と木の間より広場側に移した。その渦は地面に落ちていた落ち葉や、枯れた花びらなどたくさんの物を巻き上げている。あの蝶がとまっていた花も例外ではなく、そのか弱い茎を上下左右ばらばらに動かす。その花びらが一枚、風に負け、渦に引き込まれると、渦は力を増してその大きさを変えた。また一枚飛ばされた。また一枚。そうして最後の一枚が飛ばされると、あの広場の限界と思われるところまで大きくなり、回転を止めた。限界のなかったはずの広場に渦が隅を作った。一度とまった渦は少しずつ動き始め、彼の眼にもわかるほどまでスピードを上げた。ギアを上げるかのように回転を続けていく渦によって広場が丸ごとかき乱されていく。外側からぐるっと混ぜられる。緑の草と灰色の石が混ざり、青い空と白い雲が混ざる。今気づいたのだが、これだけいろいろあったにも関わらず、夕焼けは訪れておらず、昼間のきれいな青空が広がっていた。混ぜられた景色は渦の中心に向かって集まりだし、一つの塊を形成し始めた。その塊の色が黒に近いものであったため、彼はその黒さに何か邪悪なものを重ね見てしまい、その塊から目を離せずにいた。いつ広場を出て彼のもとに飛んでくるかわからないのだ。常に動向に注意して、反射的に逃げなければならないからだ。つまり一般的な、対象を恐れるあまりその存在を避けるものとは違う恐れを感じていた。
しばらくそのまま様子を見ていたのだが、その塊は広場から出ることはおろか、初めの位置から動くこともないようだった。何かを頑固に守っているのだろうか。彼も自分のわがままを通すときは頑なに動くことを拒むということをやっていた。それは今よりも幼い、もうすでに記憶が薄れ始めている時期の話であり、彼もそのことを母親からきいて知っている。あの時の感情に似たものをあの塊も持っているのだろうか。
さっきの蝶が気になった。塊に吸い込まれるように一つになっていく広場だったが、まだ全部が集まっているわけではない。広場の中心はほとんど集まってしまい、少なくとも彼が知っている地球の景色ではなかった。空間に筆で絵の具を殴るように塗る、そんな景色だった。その景色にあの白いモンシロチョウの姿は見当たらなかった。しかし、彼があの蝶たちの存在を気にしだした途端にその姿を渦のどこかからか現し、彼の目の前を飛び始めた。まだ四匹だった。白い羽は渦の力に負けることなく、ごく自然体に空を飛んでいる。やはりあの蝶たちは自然の生き物ではないのだ。彼が作り出した宇宙にだけ存在する何らかのものであるから、この自然に起きている現象に干渉されない。ということは、ここでどんな天変地異が起こったとしても、あの蝶の増加は抑えることはできず、限界まで一直線に進んでいく。やはりあの広場を出て正解だった。
彼が知っているモンシロチョウと今目の前を自由に飛んでいる蝶は同じものであるはずなのだが、どこか違うように感じる。それは模様がどうとか、そういう目に見える違いではないようで、彼自身にもどこが違うのか、断言できずにいた。その不確かな疑問を持ったまま渦が動く様子を眺めていた。彼の周りの景色はあの広場の中にいたときとほとんど変わっていない。数少ない人工物は整えられた砂利道と、突き刺さった木の棒だけだ。飛んでいた蝶がこちらに向かってきた。その遅いスピードによって恐怖感は感じなかった。四匹が一斉にこちらに向かってくる。蝶の飛行はまっすぐというよりふらふらとしたもので、その微妙な揺れが余計に恐怖を感じさせない。木と木との間の上空をゆっくり通り過ぎると、彼の体を避けるように、蝶たちは左右に二匹ずつ進行方向を変えた。蝶たちが進むとどこから現れたのか、木の棒が現れた。地面からにょきっと突き出すその棒はあの広場を囲むように増えていく。広場を一周した蝶たちは彼がいる広場の入り口の二本の木の片方から順に左回りにとまっていく。蝶たちはそこで休憩でもしているのだろうか、羽をひらひらと動かしている。動く羽は青い空の中にある白い雲と同様、いいコントラストを生み出していた。あの広場のなかは相変わらず渦巻いており、黒い塊も依然姿を見せていた。