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千と一匹の蝶

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「そうかもしれないね。けれどこの話には根拠はない。実際宇宙の最後はそうなのかもしれないけど、君の宇宙がそうかはわからない。少なくとも私はそう思っている。去年は覚えていたことをすっかり忘れていたり、できていたことができなくなっていく。君が言う宇宙の中に創り上げてきたはずの物がどこかに消えてしまうんだ」
ここで彼は一つ安心した。おじいさんは彼の言っていることを理解していた。確かにおじいさんの話に根拠はない。それは幼い彼にもわかることだった。しかし、おじいさんの表情とこの幻想的ともとれる道の雰囲気のせいか、その話の中に真実を創り上げたくなってしまう。話すことができない動物が思っていることを勝手に想像して満足する思い込みとは違う。そこには彼とおじいさんとの間だけに成立する真実があり、動物のそれと比べて、もっと大きな、価値のある思い込みなのだ。その存在しない真実を共有しているという未知の体験が彼の宇宙をさらに大きくする。広がった空間には新しい星も生まれた。その星と星の間を何かが飛んでいる。星に比べてかなり小さいそれに彼は気づかず、その小さな存在もまた彼に気づかず、その時は過ぎていった。






 私は一五年間、この星の存在をどこかに大切にしまっていたのだが、その隠し場所をずっとわからずにいた。大切にしようと幼かった私が無自覚に見つからない場所に隠したのかもしれない。そんな星のことを今こうして思い返しているのは、あの時と同じ道を歩いているからだ。昔と変わらない石でできた道だが、周りの木々は数を減らし、きれいに整備された道と相まって一層昔と違う道に思える。暗く、何の存在もなかったこの道だが、今はたくさんの蝶がいる。奥に進めば進むほどその数は増えていく。この変わった道で変わらず残っているものは敷かれた石の道とおじいさんと作った星と、もう一つ。おじいさんとの星がこれまでの私の人生観、生き方を変えたものとすると、もう一つの物は私が生まれたときからずっと持っていたもの。透明という色をした私の星が色を変え、私の宇宙に姿を現したといえるだろう。




一五年前のおじいさんとの話は続きがある。小さな陽だまりで話を終えた彼とおじいさんはさらに先へ進んだ。陽だまりの中同様、暗い石の道に出ても例の圧迫感は現れなかった。周りの木々が心なしか優しく見える。ここまでの変化を一日に感じたことはそうなく、彼はその不思議な体験を歩く足の一歩一歩でかみしめていた。増えていくのは不安や焦りではなく、知識や興奮といったプラスのイメージを持ったものだった。
 そんな気持ちがいいはずのなかにも何か引っかかるものはあり、それがおじいさんと作った星であることはすぐにわかった。大きな興奮によって姿が隠されているが、それは確かに彼の中に存在している。その星はこれまで考えたこともなかった宇宙の限界を知らしめる恐怖の対象であり、その反面、限界がわかることへの安心感に似たものを孕んでいる。その塊である星は高速で彼の宇宙を飛び回り、新しく作り上げられた宇宙の果てに当たり、跳ね返り、また別のほうのはてへと向かっていく。この宇宙が円形なのか、立方体なのかわからないが、はてへ向かうことはわかる。
 限界がわかったことで何か吹っ切れたかのように感じた彼はおじいさんに後れを取ることなく歩いている。むしろおじいさんの足が遅くなったように思える。おそらく実際のスピードは変わっておらず、彼が早くなったことで相対的にそう見えるだけなのだ。
 
 二人が道を進んでいくと終わりが見えるのは当たり前のことで、目の前には赤い鳥居が見えてきた。どうやらここには入り口とここにふたつ鳥居があるようだ。そこをくぐるときに入り口で感じていたものと同じものを感じたが、新しい星に気を配っていたせいか、それを投げやって、気楽に入ることができた。目的地のそこについてしまったことで、おじいさんは彼のもとを離れた。歩いてきた道を逆に進み、暗い道の中に消えていく。その道は彼も歩いてきた道であるから、どこか遠くに行ってしまうように思える、いつもの別れとは少し違うように思える。何より、彼にとっておじいさんは、年の離れた友人、そんな初めてできたジャンルの人間なのだ。これまでのどの感情も当てはまるはずもなく、彼の広く、でも限界が見える宇宙の中を必死に探していた。
 一人になった彼の前に広がる世界は常に平穏であり、ほかの言葉で表すようなものは一切存在を許されないようであった。立ち並ぶ木々、その木で作られる木陰、地面で生死の劇を繰りかえす蟻の大群でさえ、その平穏を保っていた。特に蟻の大群だが、もしここではないどこかであいつらが群がっていたら、それを平穏と呼ぶのは無理な話で、むしろその反対の言葉を使うだろう。しかし、この厳かともいえる神社の雰囲気を纏っているからか、その激動な光景の奥にある美しさともとれる平穏が透けて見えるのだ。蟻たちによって解体される芋虫の体はところどころ穴が開き、そいつにはすでに意識はないのかもしれない。そのむごさの中に儚さを感じるのだ。これを感じているのが幼い彼だということが驚きだが、宇宙の限界を知った彼はそれまでの幼さとは少し異なっているので、彼はその不自然さに気づかない。



芋虫の体を食いちぎった蟻たちはせっせと運んでいく。意思でつながれていた芋虫の体がばらばらになって、彼の靴の横を通り過ぎていく。小さな蟻の体をもっとよく見ようと彼は座り込むような姿勢になり、後ろから大きく照らしている太陽のせいで彼が作る影は大きくなり、蟻たちの黒い体を一層黒く染める。その不自然さに気づいたのか、蟻の大群の動作が機敏になり、作られていた隊列は崩れ、彼の視界の範囲からはみ出そうとする。奥の草のほうに逃げていく蟻たちを追いかけるために彼も姿勢を低くしたまま、それを追う。蟻たちは彼の大きな影に驚き、恐れ逃げ出したのだろうか。右膝が地面につき、半ズボンで露わになっていた膝小僧に砂がつく。ちょうどそこにあった小さめの石が食い込む。その痛みによって彼の蟻に向けられていた関心が一瞬だけ薄れてしまった。その一瞬を見逃さずに、蟻たちは一気にスピードを増して、彼が蟻に目線を移したときにはすでに、すべての蟻は草むらの中に消えていた。 
作品名:千と一匹の蝶 作家名:晴(ハル)