水中花 3
電話を切った瞬間に、欠如していた新潟の記憶が一度に戻ってきた。今食べているカレーの味はごく薄いものになり、一口食べるたびに新潟での記憶が辛さの代わりの恭介の体を刺激する。
「あの苦しさは一体どこに行ったんだろう。川も僕の味方じゃなかったのに」
恭介は授業をさぼった。これまでもよく理由をつけては休んでいたのだが、今日の理由は自分の感情にかなり正直になったさぼりだった。誰に何と言われようとも、今回のさぼりは正義だ。
大学の外では何かのデモが行われていた。…反対!とか、…を倒せ!とか、掲げているプラカードに書かれている平和ボケの言葉とは裏腹の攻撃的なデモだった。そこに学生らしき女性が通りかかると、三人の男が取り囲み、女性にビラを強引に渡し、話を進める。その横を知らない顔が通り過ぎ、女性は三人の男からの逃れ方法を探している。恭介も道をふさぐ団子の横を通り過ぎようとしたが、三人の中で一番背の高い男がこちらに寄ってきた。気の弱い女性は二人で十分、俺は別のやつを狙うといわんばかりの行動だった。別に恭介はこういう運動は嫌いではない。自分主張をなんとか伝えようと行動することは素晴らしい。(その中身が正しいかは二の次だとも思う)ただ、彼らの行動は主張ではなく洗脳に近い。いや、恐喝か。そうやって得られた同意は何の意味も持たず、ただ人々の関心を遠ざけるものなのだ。
「そこのお兄さん、一緒に反対活動しませんか」
「あなた方はいったい、何に反対しているのですか?」
「戦争をしようとしている輩に対してです。私たちは日本人、平和主義であるべきなんです。それをあいつは壊そうとしている。それを止めるため、私たちはこうして声をあげているんです」
「そうか、せいぜい頑張ってくれ、平和ボケ主義者さん」
恭介の言葉に激昂し、恭介の目を強くにらんできた。恭介は横で絡まれていた女性の手を引っ張り、その集団を抜けだした。
ありがとうございましたと礼を言った女性を恭介は見たことがあった。どこか懐かしいその人の顔から、どうにか記憶を取り出そうとするが、どうにもうまくいかない。やはり記憶の欠如は著しく、周りのビルや木々の風景が記憶に混ざる。
「恭介さんですよね?覚えてますか?千穂です」
そうだ、千穂だ。電車で突然声をかけたあの少女だ。名前が目の前に現れると、一気に記憶が舞い戻ってきた。あの時のコーヒーはおいしかった。
「ありがとうございました。まだああいう勧誘を断れなくて。こういうところはやっぱり田舎者なんですね」
「いや、あんな集団で来られたらそうなるのもそうですよ」
記憶が現れる瞬間で恭介は頭をうまく使えずにいた。
「このあと、時間ありますか?」
千穂に誘われ向かったのは駅前のカフェ街かなり離れた小さなカフェだった。茶色い煉瓦で作られた店の表は、なんとも暖かい雰囲気を醸し出し、落ち着きのある道路の雰囲気と一致していた。そのうちの一つ、特に色の濃い煉瓦に店の名前、relikeがかかれていた。そのフォントも落ち着きのあるもので、このカフェのセンスの良さを醸し出す。おそらく一人でここを通りかがっても、綺麗な店だなと通りすぎる。
「ここ、前から気になっていたんですけど、カフェに行くような友達いなくて。さっき会ったとき、恭介さんとなら行きたいなって」
そういった千穂はこの前の彼女とは少し違う顔をしている。高貴で、どこか賢そうな少女はもうそこにはいない。
「そういえば、よく覚えてましたね、僕のこと。記憶に自信ないって」
「私も驚いています。あの日のことは恭介さんにあったということ以外、何にも覚えていませんの。なんだか、相当な…何かを感じたのではないかと考えていたんですよ」
千穂が話す言葉の向こう側に何か、いや確定したものを感じたが、恭介はやはり言わない。そういう勘は鋭いのだ。おそらくそこに転がっている現実を見ないように。二人はそのカフェに入っていった。
店内はやはり落ち着いていた。ゆっくりと回るイルカの置物など、時間をゆっくり感じさせる工夫を随所に感じさせた。案内されたテーブルに置かれた上下逆さまになっているコーヒーカップも、恭介に思考をさせることによって時間を長く感じさせた。
「なぜ、カップが逆さに」
「それ、私も思いました。なんだか、おかしいですね。二人して同じことを考えてるなんて」
笑う彼女は店員にアイスティー頼み、恭介もそれにつられてコーヒーを注文した。メニューに書かれた文字はその瞬間に無意味なものになり、浮かび上がることなく、店員の手に渡った。この少しの動きにかなりの違和感と不快感を感じた。その感覚は恭介から漏れ出しているように思えるのだが、それに千穂は気づかないようで、外の景色を見続けていた。向こうに大きなビルが見える。あれが大学じゃなければ、窓に映る景色をあのビルを中心には見ていないだろう。もっと身近な窓に貼られた猫のシールや、少し先の堀の水や、道を歩く人とか、そういうものに。店員が紅茶とコーヒーを持ってくると、それを一口飲んで、また外を眺めた。恭介は熱そうに湯気を立てるコーヒーを放置し、先ほどの不快感(違和感はすべてこれに変わっていた)をぬぐおうと思考をめぐらしていた。千穂という女性はかなり落ち着くというか、そういう部類の人間なのだ。恭介の人生をさっと通り過ぎるような厚化粧の女性ではない。この時間は大切なもののはずなのだ。
「恭介さん、こうやって会うのは久しぶりですけど、ちゃんと大学行ってます?」
そういえば、千穂とは同じ大学だった。このことにふと気づかされ、今までの淡い記憶の中に彼女の姿が垣間見えるのを瞬時に思い出した。すると同時に彼女の姿が映るたびにこちらを向いていることにも気が付いた。冷めないコーヒーがその黒さを際立たせる。感情がそこに流れ込んでいっているようだった。重い、人間らしい、好意という感情が向けられていた。それも恋愛の分野。コーヒーが黒くなる。湯気が消えていく。透明になったコーヒーの熱だが、おそらくまだ熱い。あいつは姿を消しただけで本質は変えていない。今日のコーヒーはそうだ。
「聞いてます?恭介さん?たぶん何回か大学で見かけたんですけど」
やはりだ。この女、わかって聞いている。次に出る言葉何か。私に気づいてましたか?か、なんで話しかけてくれなかったんですか。いや、おそらく…。
「私、以前あったときから恭介さんのこと気になっていて、こうしてまたお茶できてうれしいです」
恭介は千円札を一枚机に乱暴に置くと、鞄だけ持って外に飛び出した。