水中花 3
驚いた。大学近くの道路を全力走ることになるとは全く思っていなかった。走る高級車の作る風が体に刺さり、速度を落とすが、それを追い越す力で踏み出す。ちょうど自転車のペダルにちかかった。踏み出して、踏み出したその速度は衰えることなく進む。人にぶつかった。おそらく人だ。しかし、えらく硬かった。大きな人なのだろう。それにしても足が重いな。風はもう気にならないのに。なぜだろうか。ああ、風が気持ちいい。抵抗の風はもうどこかに行ってしまった。ガクッと足が折れた。体が重力に逆らえず伏す。きれいに色分けされた道路が眼前に映る。蟻が驚いて逃げている。違和感を感じ、左足を見ると黒いズボンが少しだけ赤くなっている。くるぶしのあたりから膝の下まで。染まった布は重さを出している。自分から出たはずの血に重さなど感じるはずもないのに、感じている。
「そうか、血には感情が溶けるのか」
融けた感情はかなり重いものであることは体感的に間違いなかった。空はまだ明るい。
その夜、恭介は血を流した。どうにか皮膚を切ろうとソファの傍にあったガラス瓶を割り、その破片で腕を切った。リスカという行為だと気づいたのはその後だった。この体に入り込んだあの不快感を血に溶かし空気中か、もしくはどこかに追いやってしまいたかった。バスルームの黄色い明かりが血の色を少し違く見せる。その色はあまり好きでなかった。しかし、服についた血の色は好きだった。黒を染めた赤。言葉にするとさらに矛盾を感じる。そんな矛盾すら越する血という存在。こんなものがそばにあったのだ。新しい発見に対する興奮よりこんな力を持った物体に気づかずにいた自分の勘の無さを憎んだ。
風呂場で過ごしていると、今の自分の行動が相当おかしなものだと気づき始め、冷静になる意識と反対にこれを誰かに見られていないかを恐れた。ここまで狂ったことを平然と、しかも流れる血を恍惚とした気持ちで眺めていた。何かの拍子に飛び散った血が明かりによって黄色く染まった洗面台にあった。点々と規則などなしに散らばるその赤はなにか模様のように思えてきて、正常に戻った恭介の意識をもう一度そちら側に手繰り寄せた。点と点を指で結び、星座をつくる人になった気分になった。この形は花だ。桜、いや、菊の花びら。
その時、何かの音がかなり大きくなった。聞いた覚えのあるその音が非日常のバスルームの中の意識を外へと向け、血の星座など一気に記憶から消えた。そう一気にだ。砂浜に書いた言葉が波に消されるように。(消えた瞬間に思ったことも一緒に消えたのだろう。恭介の日記やその他のものに書かれることはなかった)その音は机の上から響いているようで、木でできたその表面を震わせていた。目には見えない波を打ち、魚の一匹でも泳ぎそうな波だ。
その波の中心にはスマホがあるのだが、こんなにも普通の日常にもうだうだ考え、時間を浪費するのがとても疎ましく思えた。それでは逆に、非日常なことは一切考えないかと言われれば、そうではない。あの血だってかなり日常を逸したものだったが、かなり考えていたようだ。この鳴りやまない音の正体はアラーム。早朝五時のアラーム。今日はなにか用事があったのか、いや、家に帰ってからそんなに時間がたっていたのか。今日は金曜日。時計に出るFRIの文字がそういう。そうだ、大学だ。まとまらない思考は散乱する言葉によく表れているようで、はいた靴下はそれぞれ別の種類のものだった。時間がない。恭介はなぜか重い体を強引に玄関に持っていく。
「いってきます」
部屋に響く音はどこかに吸収されたのだろうか、一瞬で消え去った。
駅に着くと赤い文字が電光掲示板や白いホワイトボードに書かれていた。
「京王線、車両事故により、一時運休。再開時間未定」
恭介の周りには朝の通勤ラッシュだろうか、スーツを着た集団が駅員に代わりの電車はないのかと問いただし、田舎からやってきたのか、横の女性はあたふたしている。かと思えば、駅の柱にもたれかかり、余裕な表情でスマホを眺めている男性もいる。かなり背が高い。こんなにも多くの人がいるのに、誰一人として同じ行動はしない。けれど、同じ服を着ているサラリーマン。なんとも滑稽だった。
「どれくらいしたら動き始めるんですか」
混雑する音の中でかなり明瞭に聞こえたその声は小さな子供のものだった。制服を着たおとなしそうな少女だったが、その目はそこら辺にいるサラリーマンのと同じ、都会の目だった。
「まだ、何とも…。車輪が脱線しまして、かなりの人数の方がけがをしているんです。一時間とかそれくらいの時間では再開しないと思います。バスとかほかの…」
二人の会話がなぜ、恭介に明瞭に聞こえたのかわからなかったが、その会話によって大学に行こうという気力は一気に消え去った。ただ、これではさぼりだ。何か、例えば病気だとか、そういう理由のある欠席ならば教授も納得するだろう。(今日の教授はそういう人間だった)
「何か、なにかないかな」
周りを漂うは人、音、光。どれがどうと決める必要のない物質で、強烈な何かは感じない。唯一、あの少女だけだったのか。
「なんか、犯罪者の思考みたいでいやだな」
恭介の横でスマホをいじっていた男だが、その目は何ともない風景を眺めているようだった。しかし、その画面にはいわゆるロリ系の漫画あった。否定はしない。ただ、どうも…。
そういえば、雪が帰ったらポストを見てといっていた。このことにふと気づき、それを理由に恭介は改札を通ることなく家に戻った。
開けたら何が入っているのか。こういう段ボールは本当にドキドキする。たとえ自分が頼んだものであっても、その中の空気は頼んだものではないし、もしかしたら虫とか予想外の者が紛れ込んでいるかもしれない。段ボールの隅が少し濡れているのも気になる。水の濡れ少し皴になっているそこだけ柔らかい。なにか水でも入っているのか。そう思い、恭介はなるべく揺らさないように部屋まで持ってきた。