水中花 3
病気で入院するのか、携帯の機種変更か、学校で携帯を没収されたか。いくつも浮かんでくる仮に、のすべてはしかし、の何かで打ち消され、すべての仮設は成り立たなかった。作り、壊し、積み重ね、崩れないように重なった仮設の山がゆらゆらと恭介の寝ていない意識と共に揺れ、みしみしと音を出す。崩れる一瞬を待つかのように、彼はゆっくり積み重ね、それをぼーっと眺めている。現実にはない、妄想だ。駅前でやったときには笑われた現実に妄想をはめ込む行為も、誰もいないここでなら遠慮もいらない。彼がそう思えばすべてそうなるのだ。この世界で、雪からのメールも何でもないことだと決めつければ、気持ちは楽なのだが、それができないのは明白で、そういうわけで彼は一晩中わかりもしない正解を求めて一人起きていたのだ。
いつになく太陽が照り付け、気温からは想像できない暑さが体にまとわりつく。東京の地面から串刺しにされるような暑さではない。やんわりと続く日差しの中で、朝の綺麗な空気を刺激し、恭介の体はその圧力に屈していた。周りの緑も熱を奪うことはせず、むしろその綺麗な葉の表面が光と熱を同時に反射している。味方に思える緑もここでは敵でしかない。
それでは青はどうだろうか。すなわち空、もしくは海。あいつらなら変わらず自分の味方なのではないかと考えた。そうして部屋を出てこうして川沿いをゆっくりと歩いている。そばを優雅に流れる草の川は味方ではないが、その奥に流れる、ざあーか、さーという音と共に流れる水の川はやはり恭介の味方のようだ。異様な暑さはその川の水、音に掻き消され、先ほどまでの息苦しさに似た苦しみから少なからず解放されていた。恭介のひざ元まで伸びている草を掻き分け川の水面に顔を映すと、子供のころに感じた謎の高揚感に包まれてきたのを感じ、恭介はそのままそこで川の音と共に、長い時間を過ごしていた。
小さな蟹がゆっくりと石と石を行き来している様子を恭介は見ていなかったのだが、恭介が川の水面を見続けている間に、この蟹は大きな石を五周していた。しかも、止まったり、逆方向に進んだりと、だいぶゆっくり進んだのだ。
この実に長い間、川を見続けていると、川の音に規則性を見つけた。サーの後はさーが来て、その後にはさささーと流れるのだ。言葉では表しにくい何とも抽象的な思考を続けている間に、この川に掻き消されたあの苦しさ(いや、もっといい言葉があるのだろう。この物語が完成するころにその言葉がでてくるのを祈ろうではないか)は掻き消されただけでその姿はそのまま残っているという現実に突き当たった。川の中にすっと溶け込んだように姿を消したかのように思えたあの苦しみ、は確かにそこにいたのだ。例えるなら、透明なボールだったのだろう。あの川の中に溶け込んでいるように思えて、本当はそこに存在し、仮に恭介が川に飛び込み、そのボールをカツンとけった場合、どんなに綺麗なこの川の力をもってしてもその苦しみ、を消すことはできないのだろう。
だが、逆に考えてみると、恭介がこの川に飛び込み、川のいたるところを駆け、そのカツンをけらなければ、この川にあの苦しみ、はいないということになり、恭介の直観は正解だということになる。そうだ。今勇気をもって、この川に飛び込めば、それだけでこの苦しみは消えるのだ。そうだ、そうだ。恭介は思い込みを加速させ、靴下を脱ぎ、長ズボンは曲げずにそのまま川に飛び込んだ。丸くなった小石が足裏を刺激し、かなり痛い。痛覚が川の冷たさに後押しされる。川の規則正しい音の中に雑音が混ざる。雑音の持ち主は恭介だ。
「やはり、この川には苦しみ、はいないんだ。この青はやはり僕の味方だったのか」
そのとき、丸い小石に混じって何か丸いものに当たった。石ではない。もう少し柔らかい、もう少し温かいものであった。やはり、そう甘くはないようだった。
新潟はあっという間に過ぎ去った。本当にあっという間だ。こういう言葉を使うしか表現の方法が無いくらい、時間というものを感じさせなかった。確かに過ごしたはずの二日余りの時間には一体どれくらいの何が詰まっているのか、彼の記憶のみならず、彼に干渉されるはずのない荷物や、写真、といったものまでが記憶を表すのを躊躇しているように思えてしかたないのだが、時計の日付や、今日発売の週刊誌を見ると、やはり時間は過ぎていたのだと感じるのだ。体感したはずの記憶は一体どこへ消えてしまったというのか。千穂のあの記憶の欠如が、自分に乗り移って以来、その欠如の幅と言おうか、それはますますおおきくなっていた。その広がりは、単に最近のことを忘れるようになったとか、人名だとか一つではなく、二つ以上の物を忘れるというものになっていた。その延長線上の出来事ならば、そういうことかと諦めの納得ができるのだが、この記憶の欠如はそうではないと断言できるほどその理由が明確であった。雪だ。雪のあの些細な言葉、それは忙しい合宿の空気に流され、一時はどこかに消えてしまったが、あの川でそれを見つけてしまった。
「そろそろ連絡してもいいかな」
「いや、やめておくか」
「いや、やるべきだろ」
「いや、」
「いや、」
「いや、」
「いや、」
繰り返される仮定は現れては消え、また同じやつが現れる。
「そんなの早く連絡すればいいじゃん。なんでもっと素直になれないかな」
あきれ顔で恭介の前でラーメンをすすっている男は一口食べ、一言話し、を繰り返している。「そんなことしてたら、彼女さんどっかいっちゃうぜ。ただでさえ遠距離恋愛なんだから。それとも恭介はもう別れたいとか思ってるのか?違うならさっさと連絡して来い」そういってお代をテーブルに置き、ごちそうさんと店員に向かって発し、店を出た。一人テーブルで暖かいラーメンのスープと共に時間を過ごす。
「そうなんだけど…。なんだかな」
「そんなの早く連絡すれば解決だよ。きっと彼女にはなにか用事があっただけなんだから。それこそ、そういった手前、彼女からは連絡しにくいでしょ?男ならびしっとしなさい」
ギター片手に間奏の合間に女性の先輩は言った。
「そうなんだけど…。なんだかな」
それは突然のことだった。ある晴れの昼、ご飯を食べながらある作家の新作を読んでいたとき、雪から電話がかかってきた。これまで雪からの着信は一度もなかったため、画面に映る雪の名前が新鮮に見えた。どうにもこの着信が嫌なものに思えて、出るのを拒んだのだが、横にいた友達がさっと携帯を取り上げ、画面の電話マークをタップする。手渡された携帯を耳に当てた。
「ごめんね、恭ちゃん。おばあちゃんが入院しちゃって田舎の山奥にいたの。電波がほんっとつながらなくて。寂しかった?」
恭介のもしもしという声は雪の大きな、元気な声で掻き消された。それがなぜか心地よかった。横にいる友達にもその声は聞こえたようで、クスクスと笑っている。
「恭ちゃん、今どこにいるの?」
「大学の食堂だよ」
「それじゃあ、家に帰ったらポストの中見てね。きっとすっごくうれしい気持ちになるから」
そう言い残して雪は忙しく電話を切った。その声の向こうでなんだか聞いた覚えがある音がしていた気がするが、気のせいかもしれない。