水中花 3
春が過ぎ、雨が降る梅雨も終わった。気温が上がるたびに蝉の鳴き声が大きくなっていくのが気になる。数が増えているのか、暑さにばてないように声を張り上げている、からげんきに似たものなのか。その蝉の羽に電線に残っていた水滴がちょうど落ちた。重力に逆らえず丸を保つこともできないただの水が落ちていく。その水の中に何かを見出すことはできなかった。恭介がときどき見かけるあの水球。重力を無視した丸い形。それに美しさを見出すようになっていた。千穂との別れ際に見つけてから頻繁に恭介の現実に干渉するようになったその水球だが、とあるテレビで宇宙飛行士が行っていた実験、にちなんで水中花と呼ぶようになった。面白いことに画面に映る水中花は彼が何度も見つけてきたあの水の塊にそっくりなのだ。重力のあるこの地球に突如現れた水中花。何とも非現実的で興味をそそったのだった。テレビで水中に漂う花びら、ちょうど春先に撮られたものらしく、日本らしく桜の花びらだった、その花びらの美しいこと、彼は桜が好きなのだが、日本人らしい感性のようで、桜の散り始めが大好きであった。盛りが終わるその瞬間に自らの美を汚さぬように自ら首を切るかのような潔さ、桜自身は持っていない意思を恭介はよく作り出していた。
恭介の現実に現れる水中花の中、桜に当たるものは桜同様美しいものだけであった。そこだけは何度出会おうとも変わらず、その規則性から恭介は水中花の出現を半分くらいの確率で予測できるようになっていた。しかし、その美しさというものは単なるそれではないようで、渋谷で偶然出会った有名人は水中花には入らなかった。現代アート展に行った際に見つけた美しい絵画もそうだった。
今大学のサークルの合宿で訪れている新潟も単なる美しい場所だった。夏ということで期待していた白雪景色はなく、美半減と嘆く女もいたが、バスの中で繰り返される自然の風景は恭介にとっては十分美しいのだ。わいわい楽しんでいる空気に乗り、恭介もマイクを握り狭いバスの中で熱唱した。この人たちとも薄い付き合いだ。一年後、この歌を覚えている変人はこの中にはいないだろう。
大学の前期が終わるころには恭介の記憶の欠如は著しいものになっていた。故郷の風景は薄い絵の具で描かれたような曖昧なものになり、ところどころで人の名前が消えていた。これまでなかった経験に驚くはずが、逆にこれまでの記憶力がすごすぎたと妙な納得でさらっと流れてしまった。バスが目的地のホテルに着くと、三人の先輩が川に行こうと誘ってきた。ついていくと、まあ綺麗な川で、川底にある石がはっきりと認識できる。その川底の風景にうまくなじんだように川沿いに広がる景色と青い空がすっと映り込む。実に美しい。だが、これも水中花には入らないだろう。実に透き通っているこの川に先輩が飛び込んだ。バスの中でずっと汗をかいていた服は川の水に染まり、色は変えずに清潔感だけを手に入れた。伸長一七八㎝の先輩の体がすっぽりとつかるほど深い場所が一部だけあるらしく、ここを毎年飛び込み場として利用しているそうだ。次々に飛び込む先輩たちに続いて、一年の中で最初に飛び込んだ。崖から足が離れるその瞬間に、恭介が少し前に考えていた、故郷の海に飛び込んで、得体のしれない塊をどうにかしたいという衝動、それが少し違う形で実現しようとしていた。体に水が触れ。夏場と言え冷たい水だ。恭介の体がどんどん冷えていく。閉じていた眼を開いてみた。透き通る水と泡立つ白い水。彼の飛び込みが作り出した色。そっと手を伸ばしてみた。飛び込んだ時に恭介のわだかまりがこいつを作ったのだと勝手に解釈すると、何とも清々しい気分が広がった。息が苦しくなってきて、やむなく浮上したが、この水中にずっといたいと思った。ここにいれば体中のすべての悪いものが出ていく、そう感じたのだ。
このときは考えもしなかったが、出ていった悪いものは一体どこに行くのか、それを
後になって後悔するのだ。
東京の夏は嫌になるほど暑いものだったが、ここ新潟の夏はそこまでひどくない。恭介の地元は最高気温三七度を記録したとニュースで流れていた。三七度、体温と同じ空気が外を流れるということと同じ感覚なのだろうか。地元にいたころ、特に高校生のころ、恭介は気温を全く気にしなかった。暑がりの恭介にとってはどの夏の日の気温も暑いのだ。冬になればすべて寒く、春や秋は中途半端なのだ。何度まで上がり、何度まで下がる、そんな細かいことは全く気にしていなかった。もちろん天気は例外だ。雨か晴れかは気にする。つまり、恭介も三七度以上の夏を経験しているかもしれないのだ。改めて気温がどのくらいかとわかっても、やはり恭介はそこに興味がわかなかった。やはり暑いものは暑いのだ。恭介が、興味がないはずの気温が気になりだしたのも、やはり東京のせいで、新宿の駅で毎日大きな声で今日の天気を発する謎のおじさんのせいだった。あの謎の人物は朝の発声練習なのだろうか、毎日大声を発する。
新潟の部屋で夜話題になることと言えば、やはり恋愛のことで、特に女子の部屋はなかなか見事に方程式に沿っていた。誰が誰を好きだとか、誰がイケメンだとかそういう一般的なものが平然と繰り返される。唯一違うものと言えば、その場に恭介がいるということだけだった。
「恭介くんは彼女とうまくいってるの?」
「ええ、おかげさまで」
「恭介君の彼女だからきっと女の子らしい子なんでしょ?ほんとかわいい顔して女を食べるのね」
「雪はどちらかと言えば、男に近いですよ。化粧もほとんどしませんし」
恭介が雪のことを話している間、周りの女子は興味津々に聞いていた。そんな普通の時間が過ぎていった。
案の定、男子諸君からは質問攻めになり、その日、やっと静かになったころには、深夜二時を回っていた。久しぶりにスマホを見てみると、雪からのメールがあった。
「元気?ちょっとしばらく連絡できないかも。ごめんね」と短い文章には何のひねりもなかった。何かあったのかと聞こうとした矢先、先輩から呼ばれ、酒におぼれる先輩の介抱へと勤しんだ。
朝、朝、朝。どうにもできない時間に抗うようにその部屋にいたすべての人間は布団から出ようとしない。
朝、朝、朝。そんな部屋に一人だけ起きているやつがいる。空気を乱す奴、変わり者、早起き名人、恭介だった。一人、布団に座り、掛け布団の一点だけを見つめ、時間を過ごしていた。みんなが起きるあと少しの時間、この時間で考えられるだけのことを考えようとしていた。雪からのメールのことだ。仮に、を次々に並べる。
恭介の現実に現れる水中花の中、桜に当たるものは桜同様美しいものだけであった。そこだけは何度出会おうとも変わらず、その規則性から恭介は水中花の出現を半分くらいの確率で予測できるようになっていた。しかし、その美しさというものは単なるそれではないようで、渋谷で偶然出会った有名人は水中花には入らなかった。現代アート展に行った際に見つけた美しい絵画もそうだった。
今大学のサークルの合宿で訪れている新潟も単なる美しい場所だった。夏ということで期待していた白雪景色はなく、美半減と嘆く女もいたが、バスの中で繰り返される自然の風景は恭介にとっては十分美しいのだ。わいわい楽しんでいる空気に乗り、恭介もマイクを握り狭いバスの中で熱唱した。この人たちとも薄い付き合いだ。一年後、この歌を覚えている変人はこの中にはいないだろう。
大学の前期が終わるころには恭介の記憶の欠如は著しいものになっていた。故郷の風景は薄い絵の具で描かれたような曖昧なものになり、ところどころで人の名前が消えていた。これまでなかった経験に驚くはずが、逆にこれまでの記憶力がすごすぎたと妙な納得でさらっと流れてしまった。バスが目的地のホテルに着くと、三人の先輩が川に行こうと誘ってきた。ついていくと、まあ綺麗な川で、川底にある石がはっきりと認識できる。その川底の風景にうまくなじんだように川沿いに広がる景色と青い空がすっと映り込む。実に美しい。だが、これも水中花には入らないだろう。実に透き通っているこの川に先輩が飛び込んだ。バスの中でずっと汗をかいていた服は川の水に染まり、色は変えずに清潔感だけを手に入れた。伸長一七八㎝の先輩の体がすっぽりとつかるほど深い場所が一部だけあるらしく、ここを毎年飛び込み場として利用しているそうだ。次々に飛び込む先輩たちに続いて、一年の中で最初に飛び込んだ。崖から足が離れるその瞬間に、恭介が少し前に考えていた、故郷の海に飛び込んで、得体のしれない塊をどうにかしたいという衝動、それが少し違う形で実現しようとしていた。体に水が触れ。夏場と言え冷たい水だ。恭介の体がどんどん冷えていく。閉じていた眼を開いてみた。透き通る水と泡立つ白い水。彼の飛び込みが作り出した色。そっと手を伸ばしてみた。飛び込んだ時に恭介のわだかまりがこいつを作ったのだと勝手に解釈すると、何とも清々しい気分が広がった。息が苦しくなってきて、やむなく浮上したが、この水中にずっといたいと思った。ここにいれば体中のすべての悪いものが出ていく、そう感じたのだ。
このときは考えもしなかったが、出ていった悪いものは一体どこに行くのか、それを
後になって後悔するのだ。
東京の夏は嫌になるほど暑いものだったが、ここ新潟の夏はそこまでひどくない。恭介の地元は最高気温三七度を記録したとニュースで流れていた。三七度、体温と同じ空気が外を流れるということと同じ感覚なのだろうか。地元にいたころ、特に高校生のころ、恭介は気温を全く気にしなかった。暑がりの恭介にとってはどの夏の日の気温も暑いのだ。冬になればすべて寒く、春や秋は中途半端なのだ。何度まで上がり、何度まで下がる、そんな細かいことは全く気にしていなかった。もちろん天気は例外だ。雨か晴れかは気にする。つまり、恭介も三七度以上の夏を経験しているかもしれないのだ。改めて気温がどのくらいかとわかっても、やはり恭介はそこに興味がわかなかった。やはり暑いものは暑いのだ。恭介が、興味がないはずの気温が気になりだしたのも、やはり東京のせいで、新宿の駅で毎日大きな声で今日の天気を発する謎のおじさんのせいだった。あの謎の人物は朝の発声練習なのだろうか、毎日大声を発する。
新潟の部屋で夜話題になることと言えば、やはり恋愛のことで、特に女子の部屋はなかなか見事に方程式に沿っていた。誰が誰を好きだとか、誰がイケメンだとかそういう一般的なものが平然と繰り返される。唯一違うものと言えば、その場に恭介がいるということだけだった。
「恭介くんは彼女とうまくいってるの?」
「ええ、おかげさまで」
「恭介君の彼女だからきっと女の子らしい子なんでしょ?ほんとかわいい顔して女を食べるのね」
「雪はどちらかと言えば、男に近いですよ。化粧もほとんどしませんし」
恭介が雪のことを話している間、周りの女子は興味津々に聞いていた。そんな普通の時間が過ぎていった。
案の定、男子諸君からは質問攻めになり、その日、やっと静かになったころには、深夜二時を回っていた。久しぶりにスマホを見てみると、雪からのメールがあった。
「元気?ちょっとしばらく連絡できないかも。ごめんね」と短い文章には何のひねりもなかった。何かあったのかと聞こうとした矢先、先輩から呼ばれ、酒におぼれる先輩の介抱へと勤しんだ。
朝、朝、朝。どうにもできない時間に抗うようにその部屋にいたすべての人間は布団から出ようとしない。
朝、朝、朝。そんな部屋に一人だけ起きているやつがいる。空気を乱す奴、変わり者、早起き名人、恭介だった。一人、布団に座り、掛け布団の一点だけを見つめ、時間を過ごしていた。みんなが起きるあと少しの時間、この時間で考えられるだけのことを考えようとしていた。雪からのメールのことだ。仮に、を次々に並べる。