水中花 2
「なに、君は東京にいるんだぞ。東京!そう東京だ。いつまでも田舎の空気に包まれて守っていても何も生まれないじゃないか!こんな真っ赤な服が今年ははやるそうだ!ああ、僕はやっと東京に来たんだ!これほど高揚することはあるだろうか!田舎の女どもは東京にいるだけで僕にやすやすとついてくる。こうやって東京に染まれば、もっと寄ってくるに違いない!そう考えたら今すぐにでもと、新宿に走って買ってきたわけさ。いいだろう」廉太郎の言葉に、もう方言はなかった。彼は染まってしまったのだ。なんとも奇妙な東京に。こんな真っ赤なやつの横で傷ついているこの雀を不憫に思うのは至極当然のことではないか。だから恭介はこのことを雪に話したのだ。
恭介が一通り話し終わると雪はしばらく黙ってしまった。目をつぶったままその沈黙を受け入れているとやはり現実の苦痛が一気に消えていく。
「それでその廉太郎さんとはどうするの」雪は恭介が次に話そうとしていたことを聞き出した。
「僕が気になった彼はもういないみたい。それどころか僕が興味がない東京人になんだか連絡を取るのも億劫だな。だってそうだろう?彼みたいな人間は大学にもたくさんいる。わざわざそんな人を選んで付き合う理由もないさ。雪だってそう思うだろう?」
「私はここから離れたことないけん、わからん。でも恭ちゃんがゆっとることもわからんくもない。きっと私がそこにおったら距離を置くんじゃないかな。その廉太郎さんと」彼女の方言丸出しの声が尚更恭介を廉太郎との離別を強く思わせる。最初の意気投合の感情はもうどこにもない。
「ここはとんでもない場所だよ。人をここまで変えてしまうんだ。早く卒業してそっちに行きたいよ」雪はしばらくたってからうんとだけ言って普段の会話に入った。
恭介が東京をとんでもないところだと感じ、そのまま大学生活を過ごしていると、この東京はそこまでとんでもなくないことがだんだんわかってきた。実に単調に動く教室の時計のように動く電車にそれに規則正しく乗る人間。左に一列並んで立つエスカレータ。ここはとんでもないところなんかではなかった。恭介が感じていたとんでもなさは東京という場所、空気が持つ影響力のことであったが、その影響力を作り出すであろう環境はそんなに大したことはなかった。つまり廉太郎然り、東京の空気に惑わされ、変化する人間たちは自分の空想に惑わされているだけなのだ。
恭介はこの自滅に巻き込まれず済んでいる。それはおそらく雪の存在がかなり大きいのだが、彼女がいなくなってしまったらという仮定を考えるようになった。そういうマイナスな思いは決まって電車の中でふと出てくるのだ。しかもそれは席に座らずつり革につかまっているときに顕著に現れた。電車がトンネルに入り、ガラスが暗闇を受け入れ鏡を作るとそこに映る姿がそんな気を起させるのだ。周りの人間より小さい体、それ以上に縮こまっているように見えるその姿がマイナスの感情を起させる。そしてその考えをしばらく電車の揺れに乗せて考えるのだがもう少しで答えが出そうになる時に目的地に着き、その答えを知ることはこれまでできずにいた。一度電車を出ればそのことは忘れ、また次につり革をつかむとふと思いつくのだ。
今日も朝から考え出した。仮にいなくなった、つまり交際が終わることになれば、恭介は正気を保っていられないということだけが確実に浮かんできた。しかし、仮にいなくなっても現実、東京にいる自分には全く関係がないのではないかという考えも浮かんでくる。楽観と悲観が窓の向こうのビルに映り、電車の速度にまかれ、混ざり合う。
今朝の電車はやたら遅かった。電光掲示板には駅構内に人が落ちたという情報が出ている。通勤ラッシュを直撃した事故は死亡事故であろうか。東京にきて死についても考えが変わりつつあった。恭介が東京で感じた異変、変化のほとんどに電車がかかわっている。それほど、この電車というやつは厄介なやつなのだ。
その電車の中、恭介は三号車に乗っているのだが、横にいる少女はしきりに上を見ていた。真新しい鞄と靴から上京してきた大学生と推測した恭介は少女をじっと見ていた。大学生と推測しておきながら少女と呼んでいるのは、その容姿が少女のようであるからだ。特にひねりも何もない。その少女が見上げるほうには、電車の線路図があり、この長い電車が向かうすべての駅が書かれている。色分けされたその線路図の上を今、こうして走っているのだ。
少女は上を見ている間、その横、後ろ、向こう側にいる人すべては腕元の時計や、携帯の時刻を見ていた。なるほど、これが東京人と田舎人の違いなのか。少女は時刻など気にしていない。そんなことより、自分が乗った電車が本当に目的地に着くのか、そこを気にしていた。恭介はその純粋に旅行を楽しむ姿に美しさを見つけ、少女を見ていたのだ。
「次は代々木」そのアナウンスを聞いた瞬間に少女の目線がドアのほうに向いた。ここで降りるのだろう。その一連の動作は何ともほほえましいものだった。恭介も昔はこう思われていたのだろうか。電車が止まり、少女がドアを抜けると、恭介もそれに続いた。ここは彼の目的地ではない。もう少し先だ。電車とホームの少しの隙間を飛びぬけ、恭介はその少女に話しかけた。
「突然話しかけられたからびっくりしましたよ」駅前のカフェで恭介の前に座る少女がそういった。
「すまない、こんなナンパのようなことをする奴じゃないんだ、自分は。ただ、なんだか電車の中での君に行動が、なんというか…そう、気になった。君は東京に来たばかりなんだね。僕もこの四月に来たばかりなんだ」
寄ってきたウェイターにコーヒーを注文し、少女にも何かと促したが、少女は何もと答えた。
「私も四月に越してきたんです。長野の山奥から。知ってます?長野。山ばっかりで何にもない場所なんですよ」
「一度行ったことがあるよ。安曇野という場所で工場見学に。自然豊かでいいところだった」それで用件はと聞かれ恭介は戸惑い、なんとかごまかし、少女と少しだけ話を進めた。少女は先に出されていた水を口に運び、少女は羽織っていたカーディガンを脱いでウェイターを呼び止めカフェオレを注文した。
「最初は用件だけ聞いて帰ろうかと考えてたんですけど、あなた、いい人そうなので少しだけお話しませんか、田舎者同士」
それから二人はカフェで二時間ほど話していた。少女の名前は千穂といい、偶然にも恭介と同じ大学だった。学部は法学部。恭介は講義をよく一緒に受ける友と法学部は頭のいい奴が行くところだと話していたのだが、千穂はその典型のようだった。使う言葉一つ一つがやけに堅苦しいものばかりで、文章化したのならば、何とも読みにくい哲学書のようなものになるだろう。しかし、その言葉を話すのが千穂だからか、その言葉が持つ硬さを意識させない。事実、恭介は話している間一度も苦痛に感じていない。