水中花 2
「恭介さんはなんだか私の弟に似てます。顔とか、そういうものじゃないですよ。使う言葉一つ一つが燦然と輝く星のようなんです。星座を作っているのは星々だというのはもちろん知っていると思いますが、恭介さんの言葉は増えていくたび、なにか物語が完成しそうな気を起させます。星座一つ一つにもいろんな逸話があるんですよ。きっと恭介さんが文章を書いたら、文字を読まないでも、鮮明に映像が飛び出してくる。法学部の人にはそういう印象を持った人はいないんですよ。東京に来て初めて私よりすごい、高尚な人に出会えたような気がします。高尚だなんて使いかた間違っているかもしれませんけど。こんな短い話だけでこんなにも感じるのですから、きっと恭介さんは素晴らしい才能の持ち主なのですね」
千穂はなるべくわかりやすい言葉を使って話しているようだった。千穂は時折窓を見つめていた。新しいもの、忘れたくないものに出会った記念として風景を記録しているのだと話していた。
「私ね、記憶が人より脆いの。一般的な記憶力が悪いというものではないの。今でも小学校のころとか、そういう忘却しても問題のないようなことでもちゃんと覚えてる。けれど、その記憶のどこか一部、例えばその季節だとか、話している人の名前だとか、そういう一部だけがぽろっと欠落しているの。だから、もし私がいつか恭介さんとのこの記憶のどこかをぽろっとなくしてもまた思い出せるようにこの景色を覚えているの。不思議なことに景色は絶対に忘れないの。そしてその景色が私に記憶を再び与えてくれるのよ」
「僕のことは忘れるのに、景色は鮮明に覚えているってことかい?じゃあ、その景色の一部に僕が紛れ込めば、君は僕のことを永遠に忘れないというわけだ」
恭介がカップに残ったコーヒーを飲みほして、その苦さが快感に変わるのを楽しんでいる間、千穂は返答をしなかった。
「それは一種のプロポーズのように思えるわ。もし今後私の彼、今はいないのだけれど、に会うことがあったらそれをそのまま教えてあげて。きっと、はいってうなずくわ」
そういって千穂もカフェオレを飲み干した。カップのそこにほんの少し残った液体はそのままにしている。二人は同時に外を見た。朝が過ぎ、太陽が昇り始めた東京の空気がめらめらと燃えだした。人が歩くたびにその赤くない揺らめきが大きくなる。そこを真顔で通り過ぎる。どこに行ってもそれは続くのだ。そんな地獄絵図に今から向かうのだ。千穂の方を向いていると、千穂は全く別のことを考えているようで、恭介のように慄然とした顔はしていない。
「ごめんなさい、さっきの話はなしね。もし、あなたが私の景色に紛れ込んでいても、私はあなたのことを覚えているんじゃなくて、あなたが存在していたその景色だけしか覚えてないわ。きっとそう。あなたはあなたではない何かとして私は覚えてる。なんてひどいやつなんでしょうね。けど、ここはきっとそんな場所なんでしょうね」
そういって千穂は外に出た。恭介は椅子に座ったまま、千穂が進んでいくさまを見ていた。千穂は一体どこに向かう予定だったのだろうか。大学の最寄り駅はここではない。近くの川から水の塊がふわっと浮いて、空中を漂い、千穂と恭介の間で静止した。なんとも非現実な出来事のはずだが、日常の風景の一部のように思える。丸くなった水の中心に千穂がいる。改めてみると美しい女性だった。その水を見ている。ふわふわと揺れ動くたびに水面、球面に波紋が広がる。その波紋の中心である千穂から何かが飛び出し、それを水中に留めたまま、元の川に戻っていった。
次の日、恭介が目を覚ますといつもと何かが違う気がしてならなかった。特に変わりのない洗面所で顔を洗うと、昨日の晩御飯に食べたうなぎのおいしさを思い出した。歯の間に小さな骨を見つけたからだ。昨日はなかったはずだが、確かにそこにあった。そしてその骨によってウナギのことを思い出したのだが、隣で一緒に食べていた人の顔を忘れてしまっていた。記憶の一部がぽろっと無くなっていた。
記憶の欠如は恭介の生活のリズムを乱す。今朝何食べたという何気ない会話に妙な気を使い、今朝の朝食の風景の中になにか無くしてしまっているものはないかと探してしまうのだ。何もなくなっていないはずの記憶の欠如を探すことの無意味さ、無用さ、それに気づいたころには会話は終わり、彼は変なやつという紙を顔に貼られていた。広いキャンパスの中で仲間に囲まれ、自分から孤独になろうとしていた。
彼が一人でどこかの椅子に座っていると、大抵誰かが寄ってきて少しばかり話すのだが、今日はやけにその数が多い。天井が広くあいたキャンパスの中で小さな人間が彼の視界を通り過ぎるのだ。これまではその加速する風景を結構詳しく覚えていたのだが、今日の記憶は素直にとどまることはしないようなので、恭介は椅子に座って人と話しながらずっと不安に駆られていた。実に気持ちがいい春と夏の境目の太陽が窓から差し込む。恭介の体と、椅子までを明るく照らし、その向こう、人がわんさか通る通路側には全く光が差し込んでいなかった。少し青く、黒く見えるその通路側、人。その色が恭介の今日の記憶の欠如の様子を表しているかのようで、そしてその様子を何の遮蔽物もなしに他人、そう他人に見られていることが不快でならなった。
「ちょっと、恭介。聞いてるの?」
鮮明に恭介の目に映る風景が少しの時間と共に消え去る。その短い時間が来る前にここから逃げ出すしか、その恐怖を免れる方法はない。彼は話していた友人に返事もせずに、鞄を背負っていった。
鳥が鳴き、葉が鳴き、子供が泣き、室外機が鳴く。そんな風景だった。恭介は大学を出て、駅に向かっていた。自宅とは逆方向の駅に向かう。目的などなく、ただ歩く。東京の街並みは歩くには不都合で、すぐに足の裏が痛くなる。今朝ふった雨によって濡れた落ち葉がさらに足場を悪くする。
「いや、今朝雨降ったよな」
恭介の記憶の中に雨は降っていないかった。けれど昨日は千穂と地獄熱の東京で話したばかりだ。
「なんだかな」
「なんだかな」
「…なんだかな!」
恭介は誰もいない東京の道で一人妄想に浸った世界に飛び込みたくなった。故郷の海などどうだろう。青く、白い波が立ち、空という広大なものを映す、自身も広大な海。そんなとてつもなく大きな海にちっぽけな人間が飛び込むのだ。実に夢想に近い世界であろう。
「海の中でただぼーっとしてればこのなんだかはなくなるのか」