水中花 2
最後に地元を離れ、旅行に行ったのはいつだったか。そのときよりこの東京は、この羽田は大きかった。広い道の真ん中をすっと伸びている水平なエスカレーターが走っているのだが、それに乗っている人は少ない。それより、人々は普通の地面を好むようで、絨毯が敷き詰められた通路に人が群がっている。しかし、田舎者の恭介にはその動く床が奇妙に、興味を惹かれ、そこめがけて一直線に歩いた。そこにつくまでに人がどんどん追い抜いていく。動く床は彼を快く受け入れた。そのまま手すりにつかまり、自動で流れる空港の通路を眺めていた。通路の壁に3や2などの文字が大きく描かれている。どこかからかやってきた飛行機がそこにとまるのだ。鹿児島、長崎、広島、高知、新潟に大阪、岩手、さらには北海道。日本全国をつなぐこの大きな空港を一度に眺められる特等席がこの動く床なのだろう。(お気づきだろうが、恭介が動く床の上で止まっている間後ろに人が詰まっているのだ。)かなり長い時間恭介は足を動かさず、進んでいたが終わりが見えてきた。出口の文字が見え、恭介はそこに向かって進んでいく。やはり、人の足が速い。何にも負けていないのに負けた気分になり、彼も歩くスピードを上げた。無理に上げたスピードは彼の足と、スーツケースの車輪の歩調を乱し、車輪にこけさせた。広い廊下で一人、勝手に混乱していた。
空港の中は寒かった。地元の空港は人に対する配慮からくる寒さであったが、ここの寒さはそうではない。寒いなら何か羽織れ。もしくはここから出ていけ。そういう一方的なもので、田舎から出てきたばかりの恭介を歓迎するものでは決してなかった。動く床も一見迎え入れているかのように見えたが、そうではない。田舎者と都会者を見分ける境界線なのだ。それに乗るものを見て、あいつは田舎から来たばかりだなと見下すための物なのだ。
恭介がここまで田舎に対して劣等感を抱き、被害妄想を繰り広げるのには理由があった。隣を過ぎる人、皆が落ち着いているのだ。服装然り、顔つき然り、漂う空気がそう物語る。この横のおじさんも恭介と同じ出身の者かもしれないが、やはりどこか違う。自分だけが子供であった。
下を向く。ほぼ無意識だ。そこに恭介の知り合いがいれば、この劣等感のようなものは一瞬にして消えるのだろうが、そんなことはここでは起きない。目に入るものすべて新しい「何か」で、既知の「何か」ではない。姿は見えるが、誰かわからない身近な人がどんどん増えていく。さあ、出口を出ようか。ここは彼の居場所ではない。
東京に来て初めて発した言葉は寒いだった。
空港は東京と故郷を微妙にまたいでいるので、例外とするが、東京、そう東京に来て、空港の出口に出てみると寒いのだ。東京は北にあるから寒いだろうなと予想していた恭介であったが、その予想通りであった。出口前で一人でつぶやいたその感想は昔の彼の予想を本当にした。後ろの自動ドアに移る恭介は半袖だった。空港の中では気づかなったが、半袖を着ているのは彼だけだった。そのガラスには無数の人が映っては消え、映っては消える。その流れに彼も乗ることにした。ここでは一人だが、流れはあるようだ。これに逆らわなければ何とかなるだろう。
「とりあえず電車に乗らないと」何気なく発したこの言葉が彼が東京で感じた一つの衝撃をそのまま表していた。その衝撃をまだ知らない彼はそこに向かって何の準備も、勇気も、装備ももたず裸で進んでいく。そこは茨と劇薬がまき散らされた地下道であることを後で知って後悔するのだろう。
電車に乗ろうと改札まで来た。ここで恭介はかなり困った。東京人(そうでなくとも日本人の九割は違うだろう)なら迷うことがないであろう、改札の通り方にだ。彼の故郷には電車がない。あるはあるのだが、それを使ったことは一回もなかった。おそらく、あそこに切符を入れるんだ。たぶん間違いない。人生初の改札通り。なんとも子供じゃないか。そこは空港の出口のように一種の境界線であるが、空港より閉鎖的なものに思えた。あの弱そうなパタパタが駅内と外を区別しているのだ。どこにそんな力があるのか不思議になる。
「何考えてるんだろう。大した頭もないくせに」横をすっと大人が通り過ぎていく。華麗にピッと電子カードをタッチする。その何気ない動作に劣等感を感じ、買ったばかりの切符をポケットにしまい、あらかじめスマホにチャージしておいた電子マネーで通ることにした。「こんな小さなことが降り積もるのか」と小さくつぶやいたのを誰も聞いていない。
ホームは風が通り、着ている服と体の境界を確かにした。自分のものではない何かがまとわりつくこの感触を不快に感じることなく、むしろ、その風を心地よく感じていた。汚れたホームの床に持ってきた鞄を置く。スーツケースは階段では邪魔になり、先に家に送った。こういうところはやはり便利だ。タイルの溝に詰まった汚れが黒い線を作り、タイルの存在を際立たせる。彼はさっきから下ばかり見ていた。上、電光掲示板とかそういう案内がそこら中に吊らされていて、それはどこへ行ってもあった。それに頼って進めば目的地にたどり着ける。その支配力を嫌い、それに頼る彼自身をなぜか恥じていたからだ。
しばらく待っていると電車がやってきた。何とも自然にそこにとまり、扉が開いた。彼が立っていた場所にピシャリと止まったのだ。人々が続々乗る傍ら、彼だけはそのまま立っていた。感動か、恐怖か、何とも言えない気持ちが彼の足を留めた。
電車は進む。その中に彼の姿はない。勝手に進んで、勝手にどこかに行ってしまうのだ。電車の進行方向に見える線路はすでに完成していて、どこに進むのかもうわかっているのだ。自分の周りに確定された空間、つまり東京の空気が回る。色のない、重さもない、味もないその空気は彼に幻想を見せた。線路の向こう、かすかに青く見える海のほうに水の塊を見つけた。それは故郷のトンネル付近で見つけたものと同じ形をしていた。
その中に何か、綺麗だが触れてはいけないようなものがあるように思えたが、それがなんだかわかる前にそいつは姿を消した。
それから恭介は新しい場所で過ごした。何もわからない、彼にとっては未開の地である発展地、東京で地道に世界を構築していった。手始めにそこら辺を散歩すると、案外東京も故郷と変わらないものなんだなと期待に対する落胆と、空港で感じていた劣等感の薄れとが同時に恭介の体をめぐり、さらに遠くにへと足を運ばせた。線路沿いをずっと進もうとしても崖や山、家に憚られて思うように進めないのは強引に作り出した人工物だからだということを再認識させ、なんとも劣等感を消失させた。