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水中花 2

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飛行機の中は空港に比べて暖かい。この閉鎖的な空間で彼は一人で座っている。通路側の席に座った彼はイヤホンを取り出し、手持ちの音楽プレイヤーに差し込んだ。音楽の再生ボタンを押すとイヤホンから微かに音が漏れ出した。その音が空気中を漂い、少し向こうに座っている人に伝わる。その聞こえない音に気付いたのか、三つ向こうに座っていたおじいさんがこちらを向いた。隣には同じ年くらいのおばあさんが座席に置いてあった飛行機のパンフレットを眺めながらおじいさんに向けて話しかけている。その言葉に恭介の故郷の方言が頻出しているのを聞くと、やはりここはまだ故郷なのだと感じる。その故郷の先人は彼の目を見たまま連れのおばあさんを無視していた。そして何かをつぶやくと目線を反対側の窓に向けて、おばあさんと談笑し始めた。恭介とは関係のない人物であった。
 音楽をかけ始めてから彼はイヤホンを耳にはめ、飛行機から発せられる機械音やエンジン音、声からわかる綺麗なお姉さんのアナウンスなどとは別の世界に入り込んだ。聞こえてくる音は一つ、ラの音だ。それが永遠につながる。その音が消えかかる寸前にまたラが入ってくる。その繰り返しで、最後まで続く。恭介は指でリズムをとってみた。トン、トン、その動作にイヤホンから流れてくる音が色をつけ、音をつける。そんな行為に恭介が感じていた故郷を離れるという不安を隠した。音と行為がかみ合っていないこの行為に紛れさせた。彼が抱いている不安の本質はそういう負の物ではなく、本当はもっと明るいものなのだ。そう、この感情はイヤホンか何かが作り出した虚構で包まれただけなのだ。そんな薄皮に騙されるわけにはいかない。続くラの音が荒ぶる気持ちを静める。その安定剤であるラの音が消えかかるときにそれとは違う音が聞こえた。とっさにイヤホンを外すと、彼の横で一人の男性が立っていた。重そうな黒い鞄を持ったその男性はかなり大きく、背の低い彼と並べると蟻とバッタくらいだ。
「奥、いいですか?」
そういって大男が指さしたのは彼の席の奥側で、恭介は邪魔になっていたのだ。恭介は慌てて席を立ち、大男に道を譲った。狭い機内でこの大男が通るとなおさらこの狭さを実感し、イヤホンを通して感じていた安らぎが一気に消え去った。黒い鞄が恭介の肩に当たる。意外といたくない。大男が席に座ると、恭介も席に座った。
「すいませんね、体が大きいのでそうやすやすと通れないんですよ」
大男は笑顔で話しているのだが、その内容は皮肉のみで、恭介はその言葉と表情の乖離に悩んだ。この大男は悪気をもっておらず、ただ普通に話したのならば、恭介がどうこう悩む必要はない。けれど、この大男と恭介はあったばかりで、なにも知らないのだ。しかも彼はそういうことに鈍いのだ。
飛行機が滑走路をゆっくりと進んでいる。その動きに引っ張られ、灰色の滑走路がゆっくり進む。車の中で見た空と海の関係のように、この二つは連鎖的に動いている。どこまでも広がる海、空とは違うが、かなり広く広がるこの滑走路と、燃料さえあれば、どこまでもいけるこの飛行機というすこし縮小された関係図は似ている。灰色の滑走路の上を飛行機の影が通ると、その跡には鳥たちが群がり、その進行方向には鳥はおろか生物は一匹足りとも存在を許されない。なんとも神聖な空間ではないか。
窓の向こうには例の滑走路と飛行機の羽の一部が見える。飛行機の動きに反応し、羽を上下に動かす飛行機をぼーっと見ていると、あんなにも軟弱な羽をもつ奴に命を預け、夢を預け、旅路を預けるのかと思うと、なんとも情けなくなる。もっと強そうなやつに任せてみたいものではある。飛行機はスピードを上げていく。ときどきゆっくりとスピードを落とし、カーブする。どこまで地面を這い、いつ、空に飛び立つのか。あのエレベーターでも感じられる気持ち悪さはいつ来るのか。名前は知らないが、その現象は知っている。そういうものがここには多すぎる。
窓を見ると恭介の視界にはどうしても大男が映り込む。小さな窓だけに視線を送ることはできず、あの皮肉を言ったかもしれない大男を彼はずっと視界の中にとどめていた。飛行機の中の風景の一部としてずっとそこにあった。機内アナウンスで再度シートベルトを締めろと言われる。すでにぎちぎちにしまったシートベルトをさらに閉めろというのだ。なんとも強情なやつだ。ベルトでシートに締め付けられたまま、滑走路を走る。もし、このまま空を飛ばなければ、飛行機に乗る意味などないのだ。では、なぜ僕は飛行機なんかに乗っているんだ。そう、東京に行くためだ。なぜ東京に行く。なぜだ。締め付けられたシートごと彼の体は飛行機の一部になっていく。全部は彼ではない。けれど、全部が彼でないというわけでもない。締め付けられたシートベルトに集中していると、一つになった体がふわっと浮いた感覚を覚えた。ほぼ反射的に窓を見ると、大男と目が合ってしまった。
「飛びましたよ。そろそろ海が見えますよ」大男は驚いた顔をした恭介とは対照的に大人の対応をしている。やはり、彼は鈍い。

飛行機が空を飛び、雲の上までくると、それまですこし曇っていたところが一気に晴れた。「僕が飛行機に乗ると、必ず天候が荒れるんですが、今回は珍しく晴れている。きっとこれから急変化するだろう」大男が恭介のほうに身を乗り出し、高揚した様子で話しかけてきた。飛行機の出立の時の会話以来、二人は短い会話を繰り返していた。その短い会話の中で大男の嫌味たらしい様子がますます強調されてきた。
「ほら、やっぱり降ってきた」飛行機が雲をくぐり、下降すると、雲の色が黒くなり始め、次第に窓に水滴が付き始めた。閉ざされた空間を外側から雨がたたく。
「あいつらは出てこいよって言ってるんだ。あんな小さな水滴の癖に生意気だとは思わないか」大男の嫌味はまだまだ続く。


 飛行機が羽田に着くころには大男は話しつかれて寝ていた。その大男の向こうにある窓から東京の風景を観察できたのだが、恭介はあえて窓を見ず、イヤホンから流れてくる音に集中していた。この大男とのかかわりをなるべく消したかったからではない。最初の東京というものを、空気を通して、目を通して、耳を通して、つまり五感のなるべく多くを使って感じたかったからだ。そのために楽しみを取っておいた。
 飛行機がとまり、乗客がいそいそと旅路を急いでいる中、この大男は爆睡していた。これほど大きな体を持っていると、それほどの余裕を体のどこかに留めておくことができるのだろうか。なんともうらやましい。恭介もこの大らかな態度をまねしたくなったが、この大男と同時に飛行機を出たくない。こんな嫌味を、皮肉を言うやつと新しい東京の地を踏みたくはない。恭介は席を立ち、席の上にあるスーツケースをゆっくりと取り出す。また、ここが悪い。恭介の伸長ぎりぎりの高さにあって、容易に取り出せない。すると横から手が伸びてきて、スーツケースをひょいと担いだ。
「はい、これですよね」大男が思いスーツケースを持っていた。大男は寝ていたわけではなかった。ただこの人ごみを避けていただけだったのだ。

 やはり彼は鈍い人間であった。


 
 広い。何とも広い。それに限る。
 
作品名:水中花 2 作家名:晴(ハル)