水中花 1
昨日の夜、つまり出発の前夜だが、彼は特に何もしなかった。好きな音楽を聴いて、ものがなくなった自分の部屋を眺めて一人黙っていた。その沈黙の中で悲しみや寂しさといった感情は姿を現すのだが、何も残っていない部屋にはそいつらは居座ることができないようで、現れては網戸の隙間からすっと消えていっていた。そのため、彼は出発の前にその悲しみにじっくりと向き合うことができずにいた。唐突な感情は言動を困らせる。彼女との別れについても、そうだ。大学合格からずいぶん経っていて、その間考え続けてはいたのだが、やはり物事は直前になって本性を表すもので、昨日の夜、寝る前に感じた寒気はきっと離れたくないという彼の無意識の抵抗なのだろう。
彼女に触れられる直前になって、このまま付き合ったままでいいのだろうかと不安になってきた。恭介は彼女のことが大好きで、どんな苦痛にも耐えられる自信があった。さらに恋愛という人間の日常生活上では起こりえないことが起きるイベントの中で感じるつらさやや寂しさ、嫉妬といった感情に対する免疫も持っていた。けれど、彼女はどうだろうか。以前、彼女に告白した時、彼女は恭介が初めての恋人だといった。つまり、これまで誰とも付き合っていないということだ。恋愛というのは実に厄介なもので、何度経験しても新たな側面が現れ、その度に悩み、苦しむのだが、その姿に酔うのを楽しむ自分がいる。このように考えられるのもこれまで何度も経験してきたからで、初めのころはこんな余裕もなかった。つまり、彼女はこんな余裕を持っていない。ましてやまだ一八の子供だ。精神的に成熟しているとはどうも思えない。
仮に彼女がそういうつらさを一切感じなかったとしたら、それは味気ない恋愛で、きっと結婚して五年くらいたった夫婦のようなものになるのだろう。存在が当たり前になり、時にはその存在がやかましくなる。そういうものになってしまう。
彼女の肩に手を置いた。ビクッとしてこちらを振り向く姿が実にかわいらしい。先に書いた通り、彼女の顔は容姿端麗とは言えず、恭介の友達からもなぜ彼女を選んだのか疑問に思われる。恭介の顔はそこそこに整っており、スポーツもでき、頭もよいため、バレンタインにはチョコレートを複数もらうのは当たり前といった、モテるやつであったのもそう思われる要因だった。彼にとって顔というものは特に重視する項目ではなく、それよりももっと抽象的な何かを求めていた。雪の振り向く顔をかわいいと思うのも一種幻想的なものなのかもしれないが、その不確かなところに魅力を感じるのだ。
「いるなら電話に出てよ。事故にでもあったんじゃないかって心配したんだから」
雪がそう言いながら携帯を鞄にしまう。そのかばんの中にリボンのついたいかにもプレゼントらしきものを見つけたことはまだ黙っておこう。
「驚かそうと思って」
「最後の最後までくだらないね」
「くだらない歌でも歌って笑ってくれたらうれしいな」
いやだといいながら恭介の眼を眼鏡越しに一点に見つめる。彼女は恥ずかしいとき、照れくさいとき、顔を隠すのではなく、むしろ恭介の眼をまじまじと見つめる。恥ずかしがらせよと意地悪を働いたはずの恭介が逆に恥ずかしくなるのだ。こういうところも恭介が雪に惹かれる要因なのかもしれない。
二人は出発までの時間をゆっくり過ごそうと空港を一回出た。彼女も空港の空調を嫌っていたようで、外に出たとたん、気持ちいいと背伸びをしていた。
「寒かった?」
「寒さより、空港の空気が嫌いなの。抽象的な意味でね。だって、ここには別れの片鱗がたくさん散らばっているんだもん。さっきもカップルが別れを惜しんで抱き合っていたわ。そういう空気が体中に広まって私までそういう気持ちになってしまうもの」
「僕らは抱き合わなくていいの」
「そんな恥ずかしいことできるわけないじゃない」
彼女はまたも恭介の眼を直視しながら顔を赤らめている。その赤さが外の空気の暑さからくるものだと彼女はいいたいようで、取り出したハンカチで汗を拭くそぶりを見せた。
空港の駐車場とは反対の方向にベンチを見つけた。一つだけポツンとあるその様子から、今の彼らのように空港の空気を嫌った者たちが逃れるために作られたものなのだと分かった。空港を設計した人もきっと恭介たちと同類なのだ。そこに座って雪は鞄からさっきのプレゼントを取り出し、恭介へ渡した。白い袋に赤いリボンで飾られたその中身はボールペンだった。実に綺麗なもので、Sと刻印されていた。
「これから東京に行って恭ちゃんは小説家になるための勉強をするんだから、これが一番いいかなって。気に入ってくれた?」
ベンチの上に覆いかぶさるように立っている木が太陽の光をうまい具合に隠し、ボールペンの青い色を斑模様に残した。それ以外は陰によって黒に染められ、ボールペンの形を失わせる。手から伝わる重さと、空港の冷たい空気によって冷やされ、冷たくなった温度だけが恭介には伝わってきた。
「どうしてSなの?」
「来年の今日教える」
「今教えてくれてもいいじゃないか」
いやだとまた目を見て言う。おそらくこの理由は照れくさいものだろう。どういうものか想像がつかないが、彼女のしぐさからある程度のところまでわかってしまうのは、付き合っている証拠ともいえるだろう。木の陰で彼女の顔が鮮明に見えないが、そこに彼女がいるという確たる瞬間はこれからしばらく味わえない。今、少し暑いこの空気も来年まで一緒に過ごせない。たとえ大金を持っていて、暇な時間があっても、その帰省は一瞬の物であり、別れがあるものである。この木も次に帰ったときにはないかもしれない。ここにトイレができていてもおかしくないのだ。
腕時計の針は一二時三三分を指している。暗い影にいることで、針に塗られた蛍光塗料が光って見える。恭介が乗る飛行機は一三時〇五分のもので、そろそろ搭乗手続きをしなければならない。それを雪も知っていて、二人は言葉を交わすことなく立ち上がった。進みたくない道を二人で歩くことがこれほどつらいことであるのを初めて知った。これまで経験したすべての嫌な出来事は何とも簡単なもので、彼はそんな簡単なことに落胆し、もう無理だと決めつけていたのだ。これまでの自分が恥ずかしく思えてきた。
ゆっくり歩いている彼女を見つめると、短い髪が風になびくのを見た。その様子を忘れまいと頭に書き込んでいると、恭介の視線に気づいたのか、雪もこちらを向いた。その目が合うという何気ない日常を体験した。
空港の中はやっぱり寒かった。お昼時ということもあってか、人がさっきより少ない。恭介が乗る飛行機の名前が電光掲示板に出ている。予定通り飛ぶようだ。雪との時間が伸びないことを残念に思う恭介であったが、どうやら雪は違うようで、冗談半分で話してみると、予定通り飛ばないとだめだよと答えた。彼女は別れが寂しくないのか。