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水中花 1

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 空港の中は寒かった。三月のこの地域はすでに冬は超えており、春の温かさが到来しているのだが、おそらくここより北のほうからくる大勢の人々に合わせて寒くしているのだろう。きっとその人々はまだ長袖のTシャツを着ているだろうから。この地域に合わせるならもっと温度を上げているだろう。これでは寒すぎる。実際彼は半袖だ。物でパンパンになったスーツケースの中には東京で過ごすための長袖が詰まっている。汗かきの彼がこの時期に長袖を二枚も重ね着することはない。十月を過ぎる頃に初めて長袖を常備し始める。こんな小さな変化が積りに積もるのだろう。冷たい風が肌に当たるたびに立毛筋が刺激され、毛が逆立つ。臨戦態勢に入った恭介の体が入り口からエスカレータ、チケット発券機へと進んでいく。その途中で明らかに東京に行くであろう家族連れを見かけた。鞄からはみ出しているディズニーランドの広告が彼の眼に強烈に入り込んできた。楽しそうに笑う小学生くらいの子供と飛行機の手続きで忙しそうな父親。子供の横で座っている母親。両親の顔は整っており、子供の顔も将来かわいくなるであろうものであった。かなり理想的な家族だった。しかもその幼い女児はほかで騒いでいる別の家庭の子供と違い、おしとやかに旅行を楽しんでいるように見えた。なんとも理想的であろうか。あんな家庭を持ちたいものだ。横の父親を見る。彼の家庭はあの理想とは遠いものであったが、それとは違う良さがあった。どういうところだと聞かれれば、答えられない、そういう類の物だった。
 搭乗手続きを終え、恭介と父親はロビーの椅子に座り、飛行機が出発するのを待っていた。その間、車の中での沈黙が嘘かのように父親は恭介に話しかけた。東京は人が多いそうだなとか、電車が多くてどこへでも行けるなとか、そんなどうでもいいことをつらつらと話し続けた。その声は結構大きく、横に座っているサラリーマン風の男が嫌そうにイヤホンをしだした。大阪、福岡、名古屋、広島、様々な地方行きの飛行機の便が表示されている電子掲示板に恭介が乗る飛行機の名前が出たとき、父親は突然立ち上がった。
「さて、俺はこの辺で帰ろうかな。出発前に一人になりたいだろう。楽しんで来い」
そう言い残し、父親は荷物をもって席を立った。あまりにもあっけない別れ方であった。


 父親が去ったときに行った、一人になりたいであろうという言葉は全くの見当違いであった。この手のことに関して敏感で常に最善の答えを出す父親はやはり今日は調子が悪いようだ。実は彼はこの後ある人と会うことになっていた。それは父親が苦手な恋愛、つまり恭介の恋人であった。名前は雪。その名前から連想されるような冷たく、冷静な人ではなく、むしろ夏のイメージを持った元気な女性だった。しかし、その夏はときどき曇りを見せるもので、雪という名前に納得するときもある。そんな彼女だが、彼が東京に出ていくということで、別れ話になった際にも、大丈夫と一言発し、すべてを受け入れてくれた、そんな女性だった。けれど、大人な女性かと言われればそうではなく、洋服に興味がないらしく、その外面は小学生、中学生の、性的に中性的な人間といったものだった。彼より短いのではないかともとれる髪がますますそう思わせる。その彼女が昨日空港まで見送りに行くと連絡をくれたとき、彼は変にうれしかった。一般的な女性とは少し違う感性を持った彼女が最後に彼に会いたいという恋愛的な感情を彼に見せたことにだ。それは文章で送られてきたため、彼女がそのときどんな顔をして話していたのかわからなかったが、これからはそれが日常的になると思うとかなりきつい気持ちになった。
 空港の椅子は硬かった。父親と二人で座っているときには、無意味な会話のせいか、何も感じていなかったが、一人になった瞬間にそれを感じ始めた。その硬さが何を意味し、その硬さが彼の体、精神にどんな影響を与えるのか、それを考え始めた。硬さが尻から伝わるのだが、その硬さは彼の体とイスとをしっかりと区別していることの証であると考えた。仮にこの椅子が気持ち良いものであったならばそれはこの空港が別れを惜しんで、彼の体を離さないようにしていることになる。この椅子を設置した人からの別れへの配慮だろうか。
 飛行機が離陸するまであと一時間ある。彼女はもう来てもいいころだ。しかし、姿は見えない。冷房の効いたロビーでかれこれ二〇分ほど座っていたせいで体が冷えてきた。スーツケースを開けて長袖を出そうか。スーツケースを開けるには四ケタの暗証番号が必要だ。それはきちんと覚えているし、開けることは簡単だ。ためらう理由もない。けれど、これは東京に向けて作った箱であり、まだ彼は故郷の空港にいるのだ。意識的に東京にいても、体はきちんと故郷にあるのだ。恭介は開けるのを止め、近くにあったコンビニに入り、あったかいコーヒーを買った。これまでカフェオレしか飲まなかったが、なぜかブラックを買ってしまった。黒いパッケージに惹かれたのだろうか、気づけばお金を払っていた。その苦みが口いっぱいに広がると、口とのどの周りだけ不快な血が流れ始め、その代り心臓付近にはさらさらとした血が流れ始めた。故郷を出ていくことにやはり不安を感じていたのだろう。それがさっと消える瞬間を味わった。
 コンビニから戻って椅子に座ると、彼女から電話が来た。しかし、電話に出なくていい。向こうの柱の近くに彼女の姿を見つけた。黄色いカーディガンが白で作られた柱の中で際立って見える。着信を切らずに彼女のもとへ歩いてみた。このまま彼女が気付かずに驚かせることができれば、すこし気がまぎれるだろう。ゆっくりと立ち上がり、スーツケースの音を消すようにゆっくりと歩いた。着信はまだなっている。恭介が進むとそのそばを幾人もの団体旅行客が通り抜けた。話している言葉からして中国人だ。大きな体をした男性が恭介のゆっくりとした動きを不思議に思ったのか、彼のことをずっと見ていた。恭介もその中国人のことを見ることにした。歩く方向、速度は変えず、目線だけそっちに向ける。彼らは今やってきたのだろうか、それともこれからこの地を楽しむのだろうか。仮に後者なら、黒雲寺に行くのをお勧めしよう。あそこに行けば健康でいられる。人間だれしも共通認識に健康というものがあるに違いない。
 中国人は彼と反対方向に進んだため、目線を合わせたのは数秒であった。この短い時間で何らかのコミュニケーションをとれたのなら、なんとも奇妙な体験であろうか。
 さて、目標までもう少しだ。まだばれていない。彼女はつながらない携帯を見ながら彼からの返信を待っている。さあ、前に進もう。びっくりさせてやろうではないか。しばらく喧嘩もできないのだ。別れ際くらい印象に残るものにしたい。
作品名:水中花 1 作家名:晴(ハル)