水中花 1
水中花 秋
海風が吹いている。
西から吹いているこの風の中を車で走っているのだが、締め切った車内にも潮の香がほのかに漂い、車の嫌なにおいを消し去る。波によって作られた白い海の模様は、海の写し絵である空にも映るようで、青い空の中に固まって雲を見ることができる。その模写は少し遅れるようで、波に比べて遅く変わっている。風が吹けばその方向に流れ、形を曖昧にして筆でさっと引いたようにかすれていく。トンネルを抜けて、この海岸線が続く道に出てから、助手席に座る恭介には青く広がる海が空との境界線が曖昧だからか、いつもより広く見えた。この海はこれまでに何回も来ている。知っている風景がなぜこんなにも違って見えるのか。その答えは今日が彼の旅立ちであるからなのだが、海の流れと逆に進む車の中でただ一点を見つめていた彼はいつもに増して鈍感で、自分が置かれている状況すらも理解していなかったのだ。
そんな彼の横で優雅な音楽を流しながら運転をしているのは彼の父親なのだが、この男は彼とは違う意味で鈍感であった。恭介は一部、特に恋愛関係に関してはよく気が付くほうで、その分野に関しては鈍感ではなかった。それとは対照的に、この父親は、実に空気が読めない人であり、彼も幾度となくその被害を被ってきた。彼に対するものであるなら、彼が我慢すればよいだけでいいのだが、その矛先が偶然彼の親友や、友達に向いたとき、彼はその友に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。その上、本人はそれに気づかないようで、彼が目線で送る注意に気づかない。そんな彼とは違うこの父親であるが、恋愛関係以外のことに関しては、恭介よりも感覚が優れているようで、これまでもそういう父親らしい発言や言動を繰り返していた。そういう面において、恭介は父親を尊敬している。サイドミラーから見える後ろの風景は父親が見ているものと少し違う。こちらで見えているあの大きな岩はおそらく運転席側からは見えない。それと同じように今彼が抱えている、不安に似たようなものは彼しか見えないようで、車が進んでいる間、二人は特に会話をしなかった。そこに沈黙の気まずさはなかったが、逆に一時とはいえ、故郷を離れる息子に対する最善の対応かといえば、いつもそういう配慮を怠らないこの父親には似合わない態度であった。
車が進んでいるのだが、向こうに見える海岸の景色がデコボコのアスファルトよりゆっくり進んでいるようにみえるので、恭介たちが乗っているこの車のスピードがどれほどのものなのかわからなかった。仮にスピードがいつもより遅ければ、彼の父親が恭介との別れを惜しんでゆっくり進んでいるのだろうか。もしくはこの故郷が惜しんでいるのだろうか。仮に早く進んでいるのなら、彼の中の焦りやこれから向かう忙しい東京が彼を迎えようと引っ張っているのだろうか。そのどちらもが存在しているこの車内には浜辺で音楽を聴いているときのような気楽で、単一なものが流れる空気は流れていない。ゆっくり進んでいる海の中に水の塊がふっと浮き出てきたように見えた。いつか見たアニメに出てきた水でできた魚の群れだろうか。しかし、その水の塊は漂う水面とは離れて存在しているようで、その塊と水面の間に綺麗な空が見えた。その重力に反した物体の存在を半大人の彼がすんなり受け入れるには成長しすぎている。彼は確かにそのものを見たのだが、それを見ていない、もしくは幻想の一種だと決めつけて、浮き出てきたように見えたと整理したのだ。
空港までの道のりは短いもので、海沿いの景色からトンネル一つ抜けると空港が見えた。暗いトンネルの中でも横の父親の姿は見え、フロントガラス越しに白い車線も識別できる。トンネル内にも灯りがきちんとあるからなのだが、その灯りは実に頼りないもので、その灯りだけがこの視界を作り出しているとは到底思えなかった。後ろに見える海の灯りが懐かしく思える。もうあの灯りは恭介とは縁遠いものになっている。飛行機に乗る前に彼は故郷から離れた。ここから先はもう彼が知らない新しい住処で、覚悟を決める暇もなかった。そう思うと今等速に進むこの車が彼をどこか知らない場所へ連れていく、工場で稼働しているベルトコンベアーのように思える。彼はどこへ行くのか。彼は何をするのか。彼はどうなってしまうのか。そのどれも彼が知ることはできない。未来の彼しかわからない。想像不可能な結末が待っているのだ。
トンネルの終わりが見えた。白く光っているその出口がきちんとある。この点において彼はトンネルが好きだった。幼い頃の彼はそのトンネル内の暗さを恐れ、紛らわすようにトンネルトンネルと繰り返し声に出していた。その反響を受け取ることで自分の位置を確認していたのだろう。超音波を出すコウモリか!今の彼がそんなことをすれば、父親が過敏に反応し、運転に支障をきたすだろう。それ以上にこの空気の中でそんな幼いことをすることは、適切ではないのだ。今この車の中で彼にできることは、父親に大丈夫だと無言の言葉を発することだけなのだ。トンネルの出口の光の中に白とは別の色が見えてきた。あの綺麗な海の色は見当たらない。緑と灰色のペンキでざっと塗られたキャンパスに、細かくちぎられた色紙がざっと混ざっている。その色紙は彼の様々な感情を表し、二色の代表色はトンネル前の彼と今の、故郷を離れた彼を表しているのなら、なんと都合のよいものだろうか。さあ、トンネルを抜けようか。この先は故郷であって故郷ではない。光であって闇なのだ。
車を降りて飛行機が見えるようになると、故郷の空気が肺いっぱいに入ってきた。自分の体は確かにこの故郷にある。ではさっきのトンネルで感じた旅出は彼の体のどこを流れているだろうか。その二分されたような気分のまま、車から出てくる父親を待つ。エンジンはすでに切っている。それなのに、父親は車から出ようとしなかった。その右手にあるスマホが何か用事があるのだと思わせるが、その二つの眼は画面を見ていない。フロントガラス越しに空港の風景を眺めているようだった。
「父さん、出てきなよ。もうすぐ飛行機が出るよ」
彼が声に出しても、その声は空港の騒音によって掻き消される。それでも彼の口が動いたことを察したのか、父親はドアを開け、ゆっくりと出てきた。
「トンビが飛んでいるって?どこだ」
「誰もそんなこと言ってないよ」
「いや、お前の口の形はそういっていた」
いつもの勘の良さが今の父親にない。車に乗っていたときの頼もしさに似た沈黙はこんな変な会話で終わりを告げた。
海風が吹いている。
西から吹いているこの風の中を車で走っているのだが、締め切った車内にも潮の香がほのかに漂い、車の嫌なにおいを消し去る。波によって作られた白い海の模様は、海の写し絵である空にも映るようで、青い空の中に固まって雲を見ることができる。その模写は少し遅れるようで、波に比べて遅く変わっている。風が吹けばその方向に流れ、形を曖昧にして筆でさっと引いたようにかすれていく。トンネルを抜けて、この海岸線が続く道に出てから、助手席に座る恭介には青く広がる海が空との境界線が曖昧だからか、いつもより広く見えた。この海はこれまでに何回も来ている。知っている風景がなぜこんなにも違って見えるのか。その答えは今日が彼の旅立ちであるからなのだが、海の流れと逆に進む車の中でただ一点を見つめていた彼はいつもに増して鈍感で、自分が置かれている状況すらも理解していなかったのだ。
そんな彼の横で優雅な音楽を流しながら運転をしているのは彼の父親なのだが、この男は彼とは違う意味で鈍感であった。恭介は一部、特に恋愛関係に関してはよく気が付くほうで、その分野に関しては鈍感ではなかった。それとは対照的に、この父親は、実に空気が読めない人であり、彼も幾度となくその被害を被ってきた。彼に対するものであるなら、彼が我慢すればよいだけでいいのだが、その矛先が偶然彼の親友や、友達に向いたとき、彼はその友に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。その上、本人はそれに気づかないようで、彼が目線で送る注意に気づかない。そんな彼とは違うこの父親であるが、恋愛関係以外のことに関しては、恭介よりも感覚が優れているようで、これまでもそういう父親らしい発言や言動を繰り返していた。そういう面において、恭介は父親を尊敬している。サイドミラーから見える後ろの風景は父親が見ているものと少し違う。こちらで見えているあの大きな岩はおそらく運転席側からは見えない。それと同じように今彼が抱えている、不安に似たようなものは彼しか見えないようで、車が進んでいる間、二人は特に会話をしなかった。そこに沈黙の気まずさはなかったが、逆に一時とはいえ、故郷を離れる息子に対する最善の対応かといえば、いつもそういう配慮を怠らないこの父親には似合わない態度であった。
車が進んでいるのだが、向こうに見える海岸の景色がデコボコのアスファルトよりゆっくり進んでいるようにみえるので、恭介たちが乗っているこの車のスピードがどれほどのものなのかわからなかった。仮にスピードがいつもより遅ければ、彼の父親が恭介との別れを惜しんでゆっくり進んでいるのだろうか。もしくはこの故郷が惜しんでいるのだろうか。仮に早く進んでいるのなら、彼の中の焦りやこれから向かう忙しい東京が彼を迎えようと引っ張っているのだろうか。そのどちらもが存在しているこの車内には浜辺で音楽を聴いているときのような気楽で、単一なものが流れる空気は流れていない。ゆっくり進んでいる海の中に水の塊がふっと浮き出てきたように見えた。いつか見たアニメに出てきた水でできた魚の群れだろうか。しかし、その水の塊は漂う水面とは離れて存在しているようで、その塊と水面の間に綺麗な空が見えた。その重力に反した物体の存在を半大人の彼がすんなり受け入れるには成長しすぎている。彼は確かにそのものを見たのだが、それを見ていない、もしくは幻想の一種だと決めつけて、浮き出てきたように見えたと整理したのだ。
空港までの道のりは短いもので、海沿いの景色からトンネル一つ抜けると空港が見えた。暗いトンネルの中でも横の父親の姿は見え、フロントガラス越しに白い車線も識別できる。トンネル内にも灯りがきちんとあるからなのだが、その灯りは実に頼りないもので、その灯りだけがこの視界を作り出しているとは到底思えなかった。後ろに見える海の灯りが懐かしく思える。もうあの灯りは恭介とは縁遠いものになっている。飛行機に乗る前に彼は故郷から離れた。ここから先はもう彼が知らない新しい住処で、覚悟を決める暇もなかった。そう思うと今等速に進むこの車が彼をどこか知らない場所へ連れていく、工場で稼働しているベルトコンベアーのように思える。彼はどこへ行くのか。彼は何をするのか。彼はどうなってしまうのか。そのどれも彼が知ることはできない。未来の彼しかわからない。想像不可能な結末が待っているのだ。
トンネルの終わりが見えた。白く光っているその出口がきちんとある。この点において彼はトンネルが好きだった。幼い頃の彼はそのトンネル内の暗さを恐れ、紛らわすようにトンネルトンネルと繰り返し声に出していた。その反響を受け取ることで自分の位置を確認していたのだろう。超音波を出すコウモリか!今の彼がそんなことをすれば、父親が過敏に反応し、運転に支障をきたすだろう。それ以上にこの空気の中でそんな幼いことをすることは、適切ではないのだ。今この車の中で彼にできることは、父親に大丈夫だと無言の言葉を発することだけなのだ。トンネルの出口の光の中に白とは別の色が見えてきた。あの綺麗な海の色は見当たらない。緑と灰色のペンキでざっと塗られたキャンパスに、細かくちぎられた色紙がざっと混ざっている。その色紙は彼の様々な感情を表し、二色の代表色はトンネル前の彼と今の、故郷を離れた彼を表しているのなら、なんと都合のよいものだろうか。さあ、トンネルを抜けようか。この先は故郷であって故郷ではない。光であって闇なのだ。
車を降りて飛行機が見えるようになると、故郷の空気が肺いっぱいに入ってきた。自分の体は確かにこの故郷にある。ではさっきのトンネルで感じた旅出は彼の体のどこを流れているだろうか。その二分されたような気分のまま、車から出てくる父親を待つ。エンジンはすでに切っている。それなのに、父親は車から出ようとしなかった。その右手にあるスマホが何か用事があるのだと思わせるが、その二つの眼は画面を見ていない。フロントガラス越しに空港の風景を眺めているようだった。
「父さん、出てきなよ。もうすぐ飛行機が出るよ」
彼が声に出しても、その声は空港の騒音によって掻き消される。それでも彼の口が動いたことを察したのか、父親はドアを開け、ゆっくりと出てきた。
「トンビが飛んでいるって?どこだ」
「誰もそんなこと言ってないよ」
「いや、お前の口の形はそういっていた」
いつもの勘の良さが今の父親にない。車に乗っていたときの頼もしさに似た沈黙はこんな変な会話で終わりを告げた。