からっ風と、繭の郷の子守唄 131話から135話
「女が子供を産むのは、当たり前だ。
男は子供と女房を食わせるために、必死に働らく。
不都合がいくつ有ろうが、うつむいて歩いてどうすんの。
間違えようが失敗しょうが、胸を張り、前を向いて必死に歩くのが人の道だ。
失敗としくじりなら、あたしも山のように持っている。
人には言えない、墓場まで持っていく秘密だってたくさん有る。
でも、そんなものに左右されていたら、生きていくのが狭くなる。
訳があろうが、秘密があろうが、なにが有ろうが気にしない。
ひたすら胸を張って生きることだ。
これから生まれてくるあんたのお腹の子供に、なんの罪もない。
子供は生まれた瞬間から、周りを幸せにする。
見守る人たちも、子供を幸せにするために頑張るんだ。
あと2ヶ月すれば、あんたも母親だ。前を見て明日のことだけを考えるんだ。
そんなあんたに、少しばかり力を貸すだけだ。
分からないことがあれば、遠慮しないで聞くがいい。
私も一応、1人、子供を育ててきた女だ。少しは、役に立つだろう」
「お母さん・・・・わたし、」
「おっと。ひとつだけ断っておきます。私は湿っぽいのが大の苦手だ。
ナヨナヨした女も大嫌いだが、涙が出そうなドラマも苦手です。
そういう時は、すかさずチャンネルを変えます。
人生は、笑って暮らすのが一番だと、根っから信じている。
そういう風にこれからも、その先も、生きたいと思ってるのさ。
生まれてくる、その子のためにも、頑張ろうね」
次の高台に向かって登り始めた道が、頂点に差し掛かったところで
2つに別れる。
ひとつはそのまま、康平の自宅方向へ向う。
もうひとつは山裾を迂回しながら、かつては大きな桑畑が作られていた
荒地へ続く。
『あんたに、見せたいものがある』と、千佳子の車が桑畑への道を進む。
頂点から見下ろすと、かつては一面に桑畑がひろがっていた。
養蚕業は昭和30年から40年にかけて、ピークを迎えた。
昭和20年(1945)。日本の復興のため、食糧の緊急輸入が必要になった。
外貨獲得のため、再び養蚕が奨励され、脚光を浴びることになる。
郡部をひとつの単位として、蚕業技術の指導所が設置される。
養蚕技術の改良と、普及をすすめるのが主な目的だ。
群馬県内にも12ヶ所が建てられた。
昭和25年(1950)の夏。朝鮮戦争の勃発が、特需景気をよびおこす。
生糸の需要が一気に増大する。繭価が急激に上がり、繭不足の状態が発生する。
増産に次ぐ増産が続く。
昭和29年(1954)。群馬県は16,759tの繭(全国の約17%)を生産する。
ついに、全国一の地位へ躍り出る。
その後、市場は年とともに縮小していく。しかし群馬は需要が大きく落ち込んだ
現在においても、いまだその地位を維持している。
昭和30年代の後半。高度成長とともに、絹の国内需要がさら増加していく。
自由化品目のひとつであった生糸が、中国や韓国から輸入されるようになる。
昭和40年代の後半。和装需要の減退と、この頃からはじまった絹二次製品輸入の
増大により、国内における養蚕業が急激に減少していく。
壊滅の危機を迎える。
過去の繁栄を物語る『遺構』は、群馬県内の各地に今でも数多く残されている。
農村地帯を歩くと、小字(こあざ・ひとつの集落)の表示が残っている。
ひとつの集落に、必ずと言っていいほど、稚蚕の共同飼育所が有る。
カイコの1齢幼虫~3齢幼虫までの間を、ここで飼育する。
稚蚕は体が小さいため、狭い場所で多量に飼育することができる。
戦後。複数の農家が共同で飼育する、効率的な飼育方法が広く普及した。
小部屋で温度管理しながら集中飼育する方式は、群馬県の蚕業試験場が
開発したといわれている。
そうした方式を取り入れた共同飼育所が、県内に無数に作られた。
その後、養蚕業の衰退にともない、共同飼育は次々に消滅していく。
昭和の半ば。集落単位で建てられた共同飼育所は、そのほとんどが役割を終えている。
内部に柱のない大スパンの構造を持ち、密閉性に優れている建築であったため、
倉庫や工場などに転用されている。、
そうした遺構は、現在でも目にすることができる。
作品名:からっ風と、繭の郷の子守唄 131話から135話 作家名:落合順平