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鍵っ子なむ
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雨上がりの空

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「行ってらっしゃい。」母がそう返す。和やかな空気が二人の間を包む。
父が振り向く。なぜだか、父の動きが緩慢に見える。
「...ん?どうしたんだい?」
父は僕に向かってそう言った。父の少し白髪の混じった髪や、僕と似た目や、淡麗な口元を眺めた。僕は全身から、張り詰めていた緊張の糸がゆっくりと緩まるのを感じた。さっきの事は何かの間違いだったのだ。彼らは僕を驚かそうとしたのだと考えた。このような考えができるほど余裕が生まれていた。しかし、だから一層次の言葉は僕を傷つけた。
「誰だか知らないが、用があるならいいなさい。無いなら、早くどいてくれ。通れないだろう。」
そう父は言った。父が他人の、そこらにいる僕と全く関わりのない人に見えた。僕の体は自動的に動いた。僕をこれ以上辛い目に合わせないように。僕はとめどなく流れる涙を流して走った。走っている時、いや、逃げているときが一番落ち着き、心地よいと走りながら、そして泣きながらそんなことを考える自分がいた。


僕の体は見知らぬ公園にあった。涙は渇くこともなく流れ続けた。しかし滑り台が反射して見せる僕の泣き顔は全然汚くなかった。ただ、目から水が流れているようだった。うるさいほど蝉が泣く中で、けれどこれが、泣くという究極の形なのだと知った。

何時間が経っただろうか。夕暮れ時、誰からも忘れ去られたようなこの公園に、僕は一人、ベンチに座っていた。公園にはひとつの滑り台とベンチだけがあった。ぼくには夕暮れに染まるこの公園がひどく美しく見えた。あらゆる水は絞り出され、僕は今、考える余裕があることに気づいていた。クラスメート、T先生、父の言動を思い出し、考えた。公園の外の道路に茶色い猫が一匹横断している。公園の周りを覆うモミの木が風でざわめく。ふと、オレンジの世界に僕だけが取り残されている気がした。僕はとうに何が起きているのかわかっていた。世界から僕という存在が忘れられているのだ。世界の中で僕一人が存在していない。それは僕にとって悲しいことであるのと同時にしかし、喜びであった。この体中にこびりつく、つながりという苦しみから脱したいと願ったのはいつだっただろう。モミの木に張り付いているツクツクボウシが哀愁の音色を奏でている。どことなくベルリオーズの舞踏会に似ていた。あいつと僕は真逆な存在だと思った。僕はつながりから自由になりたいと願い、あいつはつながりを求めるが故に鳴き続けている。どちらが良いとか悪いとかはないけれど、僕は断じて泣くことはしない、そう思った。さっきの涙が別離の悲しみを拭ったのか、今はとてもすっきりした気分だった。しばらくして僕はやっと、ベンチから立ち上がることができた。

僕はベンチに座ってこれからの事を考え始めていた。すでに周りは真っ暗で、外の道路の街灯が規則正しく一列に並んでいる。それはとても優美だった。Gショックの黒い腕時計は9時14分を僕に教えている。道路に面した住宅街のひとつひとつの窓から明るい光が夜の暗闇に浮き上がっていた。
僕はそれを軽蔑した目で見ながら、今では父と母だけがいる家に忍び込む必要を感じた。金が無ければ何も始められない。その他にも僕の服や野外食、そして少しの本を僕の部屋から出さなければならない。父や母の記憶に僕はいないわけだから、僕の部屋を気味悪がって全てを捨ててしまう前に。幸い外庭から縦樋を登って僕の部屋の窓から中に侵入できる事をずいぶん前から知っていた。深夜の2時になるまで僕はベンチで待った。そして家に向かった。街はすでに眠っていた。途中、一目で不良だとわかる集団や、残業で残っていた40代の頭のはげかかったサラリーマン、建物と建物の間にあるわずか1メートルくらいの、ゴミ溜めの隙間に眠るホームレス、時々犬の遠吠えが聞こえて、なぜか笑いがこみ上げてきた。その衝動は僕の理性では止められないとても激しいものだった。僕は笑った。は行の二番目と三番目の間くらいの高笑いだった。犬の遠吠えと相まってそれはひとつの協奏曲となり、真夜中の誰もが寝静まる世界でそれだけが響き渡っていた。

僕は縦樋を手に取っていた。思い直してずっと背負っていた藍色のリュックサックを下ろし、庭の端っこにある柏の木の下に置いた。僕は一息に縦樋を登り、窓を開けた。そこから素早く侵入し、またすぐに窓を閉めた。僕は振り返り、僕の部屋を眺め回した。ずいぶん久しぶりなきがした。机が向かって左にあり、机の上の参考書やノートは整然と並んでいた。昔父と作ったニジイロクワガタの標本が机の端っこに立てかけられている。一編の詩が木製のフレームに僕の字で書かれている。
人間は恋と革命のために生まれてきたのだ。
太宰治の斜陽の一節だ。僕はそのかっこよさに心を打たれたのだった。この一文が極限まで洗練されている事を感じたからだ。
家族との写真が木製のフレームに入れられて壁にかかっている。しかしそこに僕の姿はなかった。父と母の間には違和感を感じる程度隙間があった。僕はそれを見ても冷静でいられた。僕はそれを嬉しく思った。完全に繋がりを断ち切れたからだ。僕は落ち着いて机の引き出しに入っている通帳を取り、戸棚から数冊の本、Tシャツ3枚とアウター1枚、インナー2枚と下着を5枚、パンツを3枚旅行バッグに詰め込んだ。僕は注意深く一階に降りて、母の部屋に入った。向かって右にある洋風なタンスの中段を一つずつ開けていく。服を掻き分けてそして通帳を見つける。母の名前が入っている通帳だけをぬきとった。母が僕の将来のために貯めていたものだった。それを僕はたまたま12歳の夏休みに発見し、母に教えてもらった。その通帳には愛情というものがあった。しかし愛情はいまや僕にとって重荷なのだ。僕は愛を受けられない身体で生まれてきたのだ。僕は全てを元どおりにして来た時より更に注意深く二階に戻る。最後に一通り確認して、僕は窓から縦樋を伝って庭に降りた。それから急いで藍色のリュックサックを背負い、旅行バッグを肩にかけて、あの公園に向かって歩き出した。

作品名:雨上がりの空 作家名:鍵っ子なむ