雨上がりの空
疎ましい。
何度そう思ったことだろう。他人の決めた僕が、僕という存在を定義する。誰かに監視されているはという強迫的観念が常に僕の意識、はたまた無意識にまであった。それが僕を慢性的な緊張と疲れで蝕んでいた。あらゆる事に投げやりになり、気づくといつも長い溜息を吐いていた。それはタバコの煙をゆっくりと、気怠げに吐く、壮年の男のようであった。倦怠感に取り憑かれ、しかし他人の目にだけは敏感な日々を送るうちに僕はふと、疎ましい原因を考え始めた。僕は考え続けた。それが唯一僕の生きる糧となっていたからだ。そして気づいた。全ての原因は”つながり”にあるということに。
テレビからアナウンサーの機械的な声が流れる。新聞をめくる音、オーブンが回る音、外からは雀の鳴き声が聞こえる。僕は一つ長い溜息を吐き、廊下とリビングを仕切るドアを開けた。
「おはようございます。父さん、母さん」
「おはよう。功之助」すでに白と青のストライプ柄のYシャツを着ていた父が新聞から顔を上げる。父の髪はもう白髪が混じっていた。彼の目は僕とよく似ていて、淡麗な口元にコーヒーの黒い跡が残っていた。
「おはよう。功。朝ごはんはそこにあるからね。」母は黒く染めたセミロングの髪をかきあげて、僕の弁当を作っていた。少し小じわので始めた、しかし、美人の分類に入る端整な顔立ちだった。
「勉強の調子はどうだい。」と父が僕に尋ねる。
「順調だよ。この間の中間テストは総合二位だったんだ。」
母がダイニングキッチンから僕に笑顔を向ける。
「偉いわ、功。将来のためにも頑張りなさい。」
「こんなところで満足してはいけないよ。医者という仕事は厳しいものだからね。」と父が冷厳に、しかし期待した目で僕を見る。
「うん。肝に銘じておくよ。」
「功なら、きっと立派な先生になれるわ。」僕は用意された朝ごはんの前に座る。そこはちょうど父と向かい合う場所だった。父は昨日、遺体で発見された16歳の男の子についての記事を読んでいた。その子は僕と同い年だった。しばらく沈黙がリビングを覆う。相変わらずアナウンサーの機械的な声が流れる。食器を洗う音が聞こえ、リビングから見える外庭の塀には雀のつがいがピーコロコロと鳴いている。原付バイクが庭の前の道路を通り、驚いた雀が飛び立つ。二匹の雀は自由の象徴のように真っ青な青空を羽ばたいている。僕はその雀を見えなくなるまでずっと見ていた。
「8月27日金曜日朝8時になりました。天気予報の時間です。、、、」
父が新聞からもう一度目を離す。
「功ノ介、そろそろ出る時間じゃないのか。」
「うん。そろそろ行くよ。」
僕はコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がった。母から弁当をもらって藍色のリュックサックを背負い玄関に行った。
「じゃあ行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」母がダイニングキッチンから顔を出して言った。
僕は家から出て数歩進むとおもむろに後ろを振り返った。赤い屋根のついた、2階建ての一軒家があった。年収が1000万を超える家庭らしい裕福な佇まいだった。しかし僕はこの家が嫌いだった。僕の上にのしかかってくるようにさえ思えた。僕はしばらくのあいだ家を積年の恨みをたたえた目で眺めて、やっと学校に向かって歩き出した。
僕はぼんやりとした違和感を感じていた。校門をくぐり、昇降口を通る時、それはだんだんと強くなっていた。そしてその違和感は僕の下駄箱に違う誰かの靴が入っていた事で確信に変わった。誰かの靴はシミひとつない真っ白なスニーカーだった。僕はしばらくのあいだ靴を手に持ったままポツンと立っていた。誰かが間違えて入れてしまったのだろうか。しかしここは間違いなく僕の下駄箱だ。どうしようか迷っていると、急かすように始業のチャイムが鳴る。仕方がなく、誰の靴か分からないが、僕の靴も一緒に並べておいた。
決定的だったのは二年D組に入ったときだった。僕がクラスに入ると、一様に全員が僕を見る。いつもと何かが違うと気づいたが、それが何であるのかわからなかった。しかしそれもすぐにわかることになる。
「あいつ誰?」
誰かがボソッとつぶやいた。
「転校生かしら。」
話したことのないkが周りの女子にそう話す。Kは鼻が少し潰れていて、下顎が少し突き出た目つきの鋭い女子だった。kの言葉を皮切りに堰を切ったように教室内は騒然とし出した。友達だった筈のクラスメートたちは僕を奇怪な目で見て、僕について何か話し続けていた。何度か僕を見ては僕がそれに気づくとすぐに視線をそらした。そのうち、一人の男子生徒が僕に歩み寄ってきた。余裕綽々と、自分の方がお前より権力があるのだと誇示しているようにみえた。それは僕が最も信頼していた友人のSだった。髪が少し茶色がかり、端整な顔立ちをしていた。
「おはよう。佐藤。」僕は彼に友好的に話しかける。心のうちの動揺をなんとか悟られないように。
「佐藤の知り合い?」取り巻きの一人がsに聞く。
「いや、知らないけど。
...どこかで会ったことありましたっけ。」佐藤は薄ら笑いしながら僕をあたかも気狂いの未亡人のように眺めていた。僕は吐き気がした。大腸が急に冷めた気がした。
何が起きているのかわからなかった。
「おーい、HR始めるから座れー。おや。見ない顔だが、君はどこのクラスかな。もうHRが始まるぞ。」
T先生が背後でそんなことを言っている。僕は夢のなかにいるような感覚にとらわれてた。意識が身体と離れるあの独特の感覚だ。
「おい、君、大丈夫か?体調が悪いようなら保健室に行きなさい。とにかくこのクラスからでなさい。、、、、」
僕はこの先生の言っている事をぼんやり聞いていた。T先生は僕の事が心配だったのか、決まって毎朝、馴れなれしいほどはなしかけていた。しかし、僕はこの先生が嫌いではなかった。どことなく優しい目を持っていたからだ。そして今T先生は僕を厄介払いしたいかのような目をしていた。僕の体は素早く、
勝手に動いた。僕はクラスを飛び出し、階段を駆け下りた。そして、下駄箱から靴をひったくり、学校を飛び出した。まだ、少ししか走っていないのに、息が荒い。これは走ったためか、異質なことへの動揺からか、しかしそんなことを考える暇もなかった。僕は走り続けた。G大通りには、サラリーマンや小学生の団体が歩いていた。僕は彼らを避ける余裕もなく、何人かとぶつかったが、とにかく前へ走り続けた。トラックが僕を追い越し、タクシーが僕を追い越した。僕の赤い靴はキュッキッュと悲鳴をあげている。僕は僕自身どこに向かっているのか知らなかった。しかし僕の身体は明確な目的があるかのように動き続けた。僕はそれに身を任せた。見慣れたパン屋が後ろに流れ、工事途中のスーパーも後ろに流れた。汗が線となって後ろに流れる。そしてとうとう着いた。否、着いてしまった。これから確かめなければならないことがある。ちょうど木製の、伊藤と彫られているプラカードが揺れ、そして鉄製のドアが開く。そこから出てきたのは、やはり父だった。僕は彼の背中をじっと見つめていた。バイクの音や隣の家から聞こえる掃除機の音も僕の耳には聞こえなかった。
「じゃあ行ってくる。静子。」と父が母に言う。
何度そう思ったことだろう。他人の決めた僕が、僕という存在を定義する。誰かに監視されているはという強迫的観念が常に僕の意識、はたまた無意識にまであった。それが僕を慢性的な緊張と疲れで蝕んでいた。あらゆる事に投げやりになり、気づくといつも長い溜息を吐いていた。それはタバコの煙をゆっくりと、気怠げに吐く、壮年の男のようであった。倦怠感に取り憑かれ、しかし他人の目にだけは敏感な日々を送るうちに僕はふと、疎ましい原因を考え始めた。僕は考え続けた。それが唯一僕の生きる糧となっていたからだ。そして気づいた。全ての原因は”つながり”にあるということに。
テレビからアナウンサーの機械的な声が流れる。新聞をめくる音、オーブンが回る音、外からは雀の鳴き声が聞こえる。僕は一つ長い溜息を吐き、廊下とリビングを仕切るドアを開けた。
「おはようございます。父さん、母さん」
「おはよう。功之助」すでに白と青のストライプ柄のYシャツを着ていた父が新聞から顔を上げる。父の髪はもう白髪が混じっていた。彼の目は僕とよく似ていて、淡麗な口元にコーヒーの黒い跡が残っていた。
「おはよう。功。朝ごはんはそこにあるからね。」母は黒く染めたセミロングの髪をかきあげて、僕の弁当を作っていた。少し小じわので始めた、しかし、美人の分類に入る端整な顔立ちだった。
「勉強の調子はどうだい。」と父が僕に尋ねる。
「順調だよ。この間の中間テストは総合二位だったんだ。」
母がダイニングキッチンから僕に笑顔を向ける。
「偉いわ、功。将来のためにも頑張りなさい。」
「こんなところで満足してはいけないよ。医者という仕事は厳しいものだからね。」と父が冷厳に、しかし期待した目で僕を見る。
「うん。肝に銘じておくよ。」
「功なら、きっと立派な先生になれるわ。」僕は用意された朝ごはんの前に座る。そこはちょうど父と向かい合う場所だった。父は昨日、遺体で発見された16歳の男の子についての記事を読んでいた。その子は僕と同い年だった。しばらく沈黙がリビングを覆う。相変わらずアナウンサーの機械的な声が流れる。食器を洗う音が聞こえ、リビングから見える外庭の塀には雀のつがいがピーコロコロと鳴いている。原付バイクが庭の前の道路を通り、驚いた雀が飛び立つ。二匹の雀は自由の象徴のように真っ青な青空を羽ばたいている。僕はその雀を見えなくなるまでずっと見ていた。
「8月27日金曜日朝8時になりました。天気予報の時間です。、、、」
父が新聞からもう一度目を離す。
「功ノ介、そろそろ出る時間じゃないのか。」
「うん。そろそろ行くよ。」
僕はコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がった。母から弁当をもらって藍色のリュックサックを背負い玄関に行った。
「じゃあ行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」母がダイニングキッチンから顔を出して言った。
僕は家から出て数歩進むとおもむろに後ろを振り返った。赤い屋根のついた、2階建ての一軒家があった。年収が1000万を超える家庭らしい裕福な佇まいだった。しかし僕はこの家が嫌いだった。僕の上にのしかかってくるようにさえ思えた。僕はしばらくのあいだ家を積年の恨みをたたえた目で眺めて、やっと学校に向かって歩き出した。
僕はぼんやりとした違和感を感じていた。校門をくぐり、昇降口を通る時、それはだんだんと強くなっていた。そしてその違和感は僕の下駄箱に違う誰かの靴が入っていた事で確信に変わった。誰かの靴はシミひとつない真っ白なスニーカーだった。僕はしばらくのあいだ靴を手に持ったままポツンと立っていた。誰かが間違えて入れてしまったのだろうか。しかしここは間違いなく僕の下駄箱だ。どうしようか迷っていると、急かすように始業のチャイムが鳴る。仕方がなく、誰の靴か分からないが、僕の靴も一緒に並べておいた。
決定的だったのは二年D組に入ったときだった。僕がクラスに入ると、一様に全員が僕を見る。いつもと何かが違うと気づいたが、それが何であるのかわからなかった。しかしそれもすぐにわかることになる。
「あいつ誰?」
誰かがボソッとつぶやいた。
「転校生かしら。」
話したことのないkが周りの女子にそう話す。Kは鼻が少し潰れていて、下顎が少し突き出た目つきの鋭い女子だった。kの言葉を皮切りに堰を切ったように教室内は騒然とし出した。友達だった筈のクラスメートたちは僕を奇怪な目で見て、僕について何か話し続けていた。何度か僕を見ては僕がそれに気づくとすぐに視線をそらした。そのうち、一人の男子生徒が僕に歩み寄ってきた。余裕綽々と、自分の方がお前より権力があるのだと誇示しているようにみえた。それは僕が最も信頼していた友人のSだった。髪が少し茶色がかり、端整な顔立ちをしていた。
「おはよう。佐藤。」僕は彼に友好的に話しかける。心のうちの動揺をなんとか悟られないように。
「佐藤の知り合い?」取り巻きの一人がsに聞く。
「いや、知らないけど。
...どこかで会ったことありましたっけ。」佐藤は薄ら笑いしながら僕をあたかも気狂いの未亡人のように眺めていた。僕は吐き気がした。大腸が急に冷めた気がした。
何が起きているのかわからなかった。
「おーい、HR始めるから座れー。おや。見ない顔だが、君はどこのクラスかな。もうHRが始まるぞ。」
T先生が背後でそんなことを言っている。僕は夢のなかにいるような感覚にとらわれてた。意識が身体と離れるあの独特の感覚だ。
「おい、君、大丈夫か?体調が悪いようなら保健室に行きなさい。とにかくこのクラスからでなさい。、、、、」
僕はこの先生の言っている事をぼんやり聞いていた。T先生は僕の事が心配だったのか、決まって毎朝、馴れなれしいほどはなしかけていた。しかし、僕はこの先生が嫌いではなかった。どことなく優しい目を持っていたからだ。そして今T先生は僕を厄介払いしたいかのような目をしていた。僕の体は素早く、
勝手に動いた。僕はクラスを飛び出し、階段を駆け下りた。そして、下駄箱から靴をひったくり、学校を飛び出した。まだ、少ししか走っていないのに、息が荒い。これは走ったためか、異質なことへの動揺からか、しかしそんなことを考える暇もなかった。僕は走り続けた。G大通りには、サラリーマンや小学生の団体が歩いていた。僕は彼らを避ける余裕もなく、何人かとぶつかったが、とにかく前へ走り続けた。トラックが僕を追い越し、タクシーが僕を追い越した。僕の赤い靴はキュッキッュと悲鳴をあげている。僕は僕自身どこに向かっているのか知らなかった。しかし僕の身体は明確な目的があるかのように動き続けた。僕はそれに身を任せた。見慣れたパン屋が後ろに流れ、工事途中のスーパーも後ろに流れた。汗が線となって後ろに流れる。そしてとうとう着いた。否、着いてしまった。これから確かめなければならないことがある。ちょうど木製の、伊藤と彫られているプラカードが揺れ、そして鉄製のドアが開く。そこから出てきたのは、やはり父だった。僕は彼の背中をじっと見つめていた。バイクの音や隣の家から聞こえる掃除機の音も僕の耳には聞こえなかった。
「じゃあ行ってくる。静子。」と父が母に言う。