さよならなんかじゃない
和寿が追いかけてくる。志穂は一心不乱に走り出した。なにも考えられなかった。振り向くと、車のヘッドライトが目に飛びこんできた。
「志穂!」
和寿の声が響いた。同時に、志穂の体は空中に投げ出された。
暗闇のなかで目を覚ました。意識ははっきりしているのに、視界は真っ暗で、身動きもできない。遠くで声が聞こえた。
「我々としてもできる限りのことはしました」
しわがれた医師らしき声。夫の悲痛な吐息。
「お腹のお子さんも危険な状態です。早い処置が必要になりますが、お子さんを助ければ、母体は耐えることができません。旦那さまにはつらい選択になりますが……」
医師の声が遠ざかっていく。和寿の答えは聞こえない。志穂の頭のなかに、子どものはしゃぐ声が聞こえた。穏やかな家庭。愛情のこもった声で夫が我が子を呼ぶ。
マサミ。夫の寝言を思い出しながら、志穂は眠りに落ちた。
おわり。
作品名:さよならなんかじゃない 作家名:新尾林月