さよならなんかじゃない
志穂は暗闇のなかで目を覚ました。すぐ隣で、夫の寝息が聞こえた。志穂に背中を向け、布団を被っている。
夫の和寿とは、学生時代に知りあった。志穂の通う大学の学祭に訪れた彼が、志穂にひとめ惚れしたのだ。はじめのうちその気がなかった志穂も、和寿の情熱に打たれ、やがては彼を愛するようになった。
不動産会社の社長をつとめる父は、真面目な医師の和寿に好意を持ち、結婚をゆるした。
和寿の純粋な心に志穂は強く魅かれていた。彼はつねにあたたかい眼差しで志穂を見つめ、細かい気配りで彼女を癒した。結婚してからも変わらない愛情で妻を支え、浮気どころか、べつの女に目を向けることもなかった。志穂はこれ以上ないほど幸福で、両親もひとり娘の幸福を喜んでいた。
和寿はまさに申し分のない夫だった。結婚二年目の今年、志穂の妊娠がわかってからは、以前にも増してやさしくなり、志穂の体を気遣って家事を手伝ったり、仕事の合間を見て何度も電話してきたり、呆れるほどまめに立ち動いていた。
大きくなった腹に手をあてて、志穂はそっと微笑んだ。和寿なら、よき父親として子供に愛情を注いでくれるはずだ。家族三人の穏やかな生活。幸せすぎて恐ろしいほどだった。
夫の背中に体を寄せ、閉じられた瞼にくちづけた。和寿が小さく身じろぐ。薄く開いた唇からかすかな声が漏れた。
インタホンが鳴り、志穂はテレビのスイッチを切って玄関に向かった。ドアを開けると、背の高い男が立っていた。
「先日ご連絡しました川崎です」
無言で頷き、目線で促す。川崎はていねいに頭を下げて、家に入った。ドアを閉める前に、素早く辺りを見回す。隣人に見られると面倒なことになる。
落ち着かない気分で川崎をリビングに案内し、紅茶を入れた。ソファにかけた志穂の膨らんだ腹に川崎の視線が一瞬向いた。嫌な予感。志穂はレースのハンカチを膝の上で強く握りしめた。
両親にも友人にも打ち明けることができず、ひとりで悩んだうえ、探偵に依頼したのは二週間前。調査が終了したという電話を受けてからは、気もそぞろで日々を過ごしていた。事実を知りたいという思いと傷つきたくないという思い。緊張を隠すことができなかった。
「さっそくですが、調査の結果をお伝えします」
川崎は無駄な前置きをいっさいせずに、単刀直入にいった。
「若村さんが浮気をしているという事実はありませんでした」
志穂は全身で息をついた。川崎の事務的な口調がかえってありがたかった。しかし、完全に納得できたわけではない。身を乗り出していった。
「それじゃ、マサミというのは……」
「若村さんが寝言でいったマサミという人物について調べました」
探偵事務所の名前が印刷された封筒から川崎が出した写真。今よりも若い夫が、ネルシャツ姿の男といっしょに写っている。志穂に向けられるものとまったくおなじ穏やかな笑顔だった。
「誉田昌巳。若村さんとは幼馴染でした」
聞き覚えのない名前。夫の口から聞いたことは一度もなかった。戸惑っている志穂に、川崎ははっきり告げた。
「ただの友人同士というわけではなかったようです」
「……どういう意味でしょうか?」
「つまり……」
川崎がはじめて言葉を濁した。わずかに眉を顰めて、いった。
「いっしょに暮らしていたようです。我々の調査では、恋人同士だったといえるかと……」
足元がぐらついた。同性愛。志穂にとってはあまりに非現実的な言葉だった。
「事実ですか?」
「残念ながら」
川崎の差し出した写真や書類に目を通したが、どれも見るに耐えなかった。志穂はテーブルの上の書類を押しもどし、目を瞑った。
「そのひととは、今はもう会っていないんですか」
川崎は一貫して過去形で話をしている。過去の過ちにすぎないというのなら、このことは忘れて、夫にも両親にも黙っているつもりだった。縋るような眼差しを、川崎はまっすぐに受け止めた。
「誉田昌巳は六年前に事故死しています」
「六年前……」
小さく呟いた志穂を見つめて、川崎はいった。
「誉田昌巳はドナー登録をしていました。事故で脳死状態となり、臓器移植を……」
川崎の声が遠くなっていく。志穂の手のなかで、ハンカチが皺をつくっていた。
和寿はその日も早く帰ってきた。志穂の手料理を褒め、残さず食べて、いつものように妻の腹に向かってやさしく話しかけた。
「ねえ」
強張った笑みを浮かべながら、志穂は夫にいった。
「なんでわたしのことを好きになったの?」
「どうした、急に」
和寿は志穂の腰に腕を回して笑った。
「志穂が魅力的だからだよ。決まってるだろ」
「由里子とか麻衣だっていたじゃない。あの子たちのほうがわたしよりずっときれいよ」
「そんなことない。きみが一番だよ」
和寿の言葉は直線的で、嘘や打算とは無縁に聞こえた。実際に、そのとおりなのだろう。志穂は吐き気に耐え、手で口元を押さえた。
「おい、だいじょうぶか。顔色が悪いようだけど……」
和寿が心配そうに顔を覗きこんでくる。志穂は逃げるように視線を逸らした。
「なんでもない」
「でも……様子がおかしいぞ。気分が悪いなら病院に……」
「だいじょうぶだってば」
思わず口調が厳しくなってしまい、志穂はいたたまれずに立ち上がった。キッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターの瓶を取り、蓋に手をかけようとする前に、瓶がすり抜けた。いつの間にか後を追っていた和寿がさりげなく奪い取り、蓋を開けて志穂に手渡した。和寿のさりげないやさしさが、志穂の神経を尖らせた。ミネラルウォーターに口もつけず、洗い場に置いた。
「志穂」
和寿は不安そうに志穂を見つめながら、ゆっくりといった。
「おれがきみの資産目当てで結婚したとでも思ってるのか。おれはそんな男じゃない」
わかっていた。むしろ、そうであればまだましだったとさえ思う。非現実的な事実。隠されていた真実が志穂の心を侵している。
「はじめて会ったのは、うちの大学の学祭だったよね」
「ああ。きみはエプロン姿で、クレープを売っていた」
「でも、わたしはそれよりも前から、あなたがわたしのことを知っていたような気がするの」
和寿は怪訝そうな顔で首を捻った。
「そんなことはないよ。あれが初対面だった」
「本当に?」
「本当だよ。嘘をつく理由があるか?」
「あるわ」
志穂は冷たい声でいった。
「わたしは生まれつき心臓に疾患があって、六年前、移植手術を受けた。そのことは聞いたわよね」
「ああ。でもそれが……」
志穂は大股にリビングにもどって、棚の抽斗から探偵事務所の書類を出した。逆さにすると、写真や書類が床に散らばった。
「誉田昌巳。知ってるでしょ。あなたと関係があったひとよ。六年前、わたしは彼の心臓を移植された。医者のあなたなら、彼の心臓がだれに移植されたか調べるのは難しくないはず」
「志穂。きみは誤解してる」
「なにが誤解よ。わたしと出会ったのが偶然だとでもいうの?」
「いいから座れよ。落ち着いて話そう」
「嫌!」
志穂の叫び声に和寿が立ちすくむ。志穂は涙を流しながら、夫をにらみつけた。
「わたしを騙してたのね。信じられない。最低よ!」
和寿を押し退け、外に出た。庭を横切り、表に出る。
「志穂!」
夫の和寿とは、学生時代に知りあった。志穂の通う大学の学祭に訪れた彼が、志穂にひとめ惚れしたのだ。はじめのうちその気がなかった志穂も、和寿の情熱に打たれ、やがては彼を愛するようになった。
不動産会社の社長をつとめる父は、真面目な医師の和寿に好意を持ち、結婚をゆるした。
和寿の純粋な心に志穂は強く魅かれていた。彼はつねにあたたかい眼差しで志穂を見つめ、細かい気配りで彼女を癒した。結婚してからも変わらない愛情で妻を支え、浮気どころか、べつの女に目を向けることもなかった。志穂はこれ以上ないほど幸福で、両親もひとり娘の幸福を喜んでいた。
和寿はまさに申し分のない夫だった。結婚二年目の今年、志穂の妊娠がわかってからは、以前にも増してやさしくなり、志穂の体を気遣って家事を手伝ったり、仕事の合間を見て何度も電話してきたり、呆れるほどまめに立ち動いていた。
大きくなった腹に手をあてて、志穂はそっと微笑んだ。和寿なら、よき父親として子供に愛情を注いでくれるはずだ。家族三人の穏やかな生活。幸せすぎて恐ろしいほどだった。
夫の背中に体を寄せ、閉じられた瞼にくちづけた。和寿が小さく身じろぐ。薄く開いた唇からかすかな声が漏れた。
インタホンが鳴り、志穂はテレビのスイッチを切って玄関に向かった。ドアを開けると、背の高い男が立っていた。
「先日ご連絡しました川崎です」
無言で頷き、目線で促す。川崎はていねいに頭を下げて、家に入った。ドアを閉める前に、素早く辺りを見回す。隣人に見られると面倒なことになる。
落ち着かない気分で川崎をリビングに案内し、紅茶を入れた。ソファにかけた志穂の膨らんだ腹に川崎の視線が一瞬向いた。嫌な予感。志穂はレースのハンカチを膝の上で強く握りしめた。
両親にも友人にも打ち明けることができず、ひとりで悩んだうえ、探偵に依頼したのは二週間前。調査が終了したという電話を受けてからは、気もそぞろで日々を過ごしていた。事実を知りたいという思いと傷つきたくないという思い。緊張を隠すことができなかった。
「さっそくですが、調査の結果をお伝えします」
川崎は無駄な前置きをいっさいせずに、単刀直入にいった。
「若村さんが浮気をしているという事実はありませんでした」
志穂は全身で息をついた。川崎の事務的な口調がかえってありがたかった。しかし、完全に納得できたわけではない。身を乗り出していった。
「それじゃ、マサミというのは……」
「若村さんが寝言でいったマサミという人物について調べました」
探偵事務所の名前が印刷された封筒から川崎が出した写真。今よりも若い夫が、ネルシャツ姿の男といっしょに写っている。志穂に向けられるものとまったくおなじ穏やかな笑顔だった。
「誉田昌巳。若村さんとは幼馴染でした」
聞き覚えのない名前。夫の口から聞いたことは一度もなかった。戸惑っている志穂に、川崎ははっきり告げた。
「ただの友人同士というわけではなかったようです」
「……どういう意味でしょうか?」
「つまり……」
川崎がはじめて言葉を濁した。わずかに眉を顰めて、いった。
「いっしょに暮らしていたようです。我々の調査では、恋人同士だったといえるかと……」
足元がぐらついた。同性愛。志穂にとってはあまりに非現実的な言葉だった。
「事実ですか?」
「残念ながら」
川崎の差し出した写真や書類に目を通したが、どれも見るに耐えなかった。志穂はテーブルの上の書類を押しもどし、目を瞑った。
「そのひととは、今はもう会っていないんですか」
川崎は一貫して過去形で話をしている。過去の過ちにすぎないというのなら、このことは忘れて、夫にも両親にも黙っているつもりだった。縋るような眼差しを、川崎はまっすぐに受け止めた。
「誉田昌巳は六年前に事故死しています」
「六年前……」
小さく呟いた志穂を見つめて、川崎はいった。
「誉田昌巳はドナー登録をしていました。事故で脳死状態となり、臓器移植を……」
川崎の声が遠くなっていく。志穂の手のなかで、ハンカチが皺をつくっていた。
和寿はその日も早く帰ってきた。志穂の手料理を褒め、残さず食べて、いつものように妻の腹に向かってやさしく話しかけた。
「ねえ」
強張った笑みを浮かべながら、志穂は夫にいった。
「なんでわたしのことを好きになったの?」
「どうした、急に」
和寿は志穂の腰に腕を回して笑った。
「志穂が魅力的だからだよ。決まってるだろ」
「由里子とか麻衣だっていたじゃない。あの子たちのほうがわたしよりずっときれいよ」
「そんなことない。きみが一番だよ」
和寿の言葉は直線的で、嘘や打算とは無縁に聞こえた。実際に、そのとおりなのだろう。志穂は吐き気に耐え、手で口元を押さえた。
「おい、だいじょうぶか。顔色が悪いようだけど……」
和寿が心配そうに顔を覗きこんでくる。志穂は逃げるように視線を逸らした。
「なんでもない」
「でも……様子がおかしいぞ。気分が悪いなら病院に……」
「だいじょうぶだってば」
思わず口調が厳しくなってしまい、志穂はいたたまれずに立ち上がった。キッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターの瓶を取り、蓋に手をかけようとする前に、瓶がすり抜けた。いつの間にか後を追っていた和寿がさりげなく奪い取り、蓋を開けて志穂に手渡した。和寿のさりげないやさしさが、志穂の神経を尖らせた。ミネラルウォーターに口もつけず、洗い場に置いた。
「志穂」
和寿は不安そうに志穂を見つめながら、ゆっくりといった。
「おれがきみの資産目当てで結婚したとでも思ってるのか。おれはそんな男じゃない」
わかっていた。むしろ、そうであればまだましだったとさえ思う。非現実的な事実。隠されていた真実が志穂の心を侵している。
「はじめて会ったのは、うちの大学の学祭だったよね」
「ああ。きみはエプロン姿で、クレープを売っていた」
「でも、わたしはそれよりも前から、あなたがわたしのことを知っていたような気がするの」
和寿は怪訝そうな顔で首を捻った。
「そんなことはないよ。あれが初対面だった」
「本当に?」
「本当だよ。嘘をつく理由があるか?」
「あるわ」
志穂は冷たい声でいった。
「わたしは生まれつき心臓に疾患があって、六年前、移植手術を受けた。そのことは聞いたわよね」
「ああ。でもそれが……」
志穂は大股にリビングにもどって、棚の抽斗から探偵事務所の書類を出した。逆さにすると、写真や書類が床に散らばった。
「誉田昌巳。知ってるでしょ。あなたと関係があったひとよ。六年前、わたしは彼の心臓を移植された。医者のあなたなら、彼の心臓がだれに移植されたか調べるのは難しくないはず」
「志穂。きみは誤解してる」
「なにが誤解よ。わたしと出会ったのが偶然だとでもいうの?」
「いいから座れよ。落ち着いて話そう」
「嫌!」
志穂の叫び声に和寿が立ちすくむ。志穂は涙を流しながら、夫をにらみつけた。
「わたしを騙してたのね。信じられない。最低よ!」
和寿を押し退け、外に出た。庭を横切り、表に出る。
「志穂!」
作品名:さよならなんかじゃない 作家名:新尾林月