からっ風と、繭の郷の子守唄 111話から115話
「俺だって泣く泣く、千佳子のひとり息子をいためつけたんだ。
拳どころか胸が痛くて、さっきから心が悲鳴をあげている」
「よく言うわよ。この人でなしの鬼瓦が。
トシさんにも謝っておきなよ。可愛い一番弟子をいたぶったんだもの。
でどうするの。タクシーを呼ぶなら手配しておくけど」
「いや。若い衆に俺の車で送らせる。
だから今夜は、帰りの車は無い。
ママが送ってくれると言うのなら、俺は大歓迎だ」
「お天道様が西から出ても、絶対に送ってなんかあげません。私は。
タクシーも呼んであげないから、とっとと歩いて帰るがいいさ。
なにさ、ふん!」
大きな足音を立てて、辻のママが厨房へ歩き消えていく。
『やれやれ、また、怒られちまったぜ』岡本が俊彦の前へ、元気なく
腰を下ろす。
焼酎の準備をはじめていた俊彦が、岡本の前へ『ご苦労さん』と
グラスを差し出す。
「康平をぶん殴ったんだって。
本来なら俺が話を聞いてやるべきことだ。あいつも
切羽つまっていたんだろう。
悪いなぁ。貧乏くじをお前にひかせて。まぁ、一杯やろう」
「あのおしゃべり女。もう全部、筒抜けに話していやがる」
「そう言うな。ママだって千佳子のひとり息子を心配しているんだ。
そういうお前さんだって、千佳子のひとり息子をぶん殴る役目を、
いやいや背負ったんだ。痛いのは、お互い様だ。
お前さんのその想いが、康平にちゃんと伝わるといいんだがなぁ」
「お前さんの一番弟子は頭がいい。機転も利く。
だが、あの性格には問題がある。
人が良くて、優しいだけじゃこの世は生きていけねぇ。
鬼千匹というほど、世間には鬼が棲んでいる。
だがそれも、今回ばかりは、少しばかり様子が違ってきたようだ。
悪知恵を使い始めてきたから、今度は、ひょっとしたら化けるかもしれねぇ。
少しばかり、成長するかもしれねぇな」
「どう言う意味だ?」
「恋愛に関してはお前も、お前の一番弟子も、まったくもって下手くそだ。
料理の腕とセンスは一流だが、女の扱いは三流だ。
愛する女のために、目の前の難局を切り抜けて行こうという気迫が
なぜか足らん。
放っておいても女の方からやってくるだろうという態度が、俺に気に入らん。
世の中そんな甘いもんじゃない。
女は、男が必死でかばって守ってやるものと相場が決まっている。
どうするんだ、清子のことは。
いい加減で湯西川から呼び寄せて、所帯を持てよ。
娘の響が嫁に行く前に、清子を迎えておけば、お前も晴れて
響の『花嫁の父』だ。
どうだ。悪い話じゃないだろう?」
「大きなお世話だ、その件は。
それより康平の話の中身はいったい何だ。
手伝えることなら、俺もあいつのためにひとはだ脱ぐ」
「おう、それだ。
実はな、男をひとり、国外逃亡させようという企てを持ち込んで来た。
今月の半ばから一週間が山場という、緊急を要する話だ。
お前さんのところで密航の準備が整うまで、そいつをかくまってくれると
ありがたい」
作品名:からっ風と、繭の郷の子守唄 111話から115話 作家名:落合順平