其の刻にまがつもの
「平太!」
麓では少年の兄が酷く青い顔で弟の帰りを待っていた。彼は平太が走り疲れてよろけたのを見ると慌てて駆け寄りその身を抱き止める。弟はと言うとそんな兄に安心したのだろう、それまで張り詰めていた緊張が解けたかのように大声を上げて泣き出した。
兄は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった弟の顔を手ぬぐいで拭いながら、どこにも怪我がないことを確認して安堵の息を吐く。そこで漸く怒声をついた。
「この馬鹿! 一体いつまで山さ入ってる!」
声と共に与えられた頭部への衝撃。平太はその痛みで漸く平静さを取り戻し辺りを見渡す。
先程まで眩しいほどに明るかった夕日はすっかり鳴りを潜め、辺りは一面の暗闇。村の所々に明かりが灯されており、板戸からは心配そうにこちらを伺う寝間着姿の中年夫婦の顔が見えた。
「なんでじゃ」
「何がじゃ」
平太はもう一度ぐるりと辺りを見渡し小首を傾げる。
「おれ、にーちゃん達が山から降りたのと一刻の差もなく降りてきたはずじゃ」
栗を拾っていたのも兄達が去ってからほんの数個だけ。山から麓までだって、本来なら暮れ始めに下っても間に合う距離なのだ。ここまで時間が経っているのはおかしい。
「馬鹿言うない。おめ、おれがあの後直ぐに呼びに行ったけどもおらんかったで」
案の定、兄は帰ったふりをしてあの後直ぐ様弟を呼び戻しに戻った。だがそこに弟・平太の姿は無く、栗を収めていた籠も無い。そこで兄は「ははあ、これは獣道から降りたな」と思い一度は村に戻ってきたものの、村の者は誰一人として平太が戻ってきたところを見ていないと言う。
それからはもう大騒ぎ。村の男達は火を持って山へ入り、平太の母親は夜が明けたら隣村の祈祷師の所を訪れると言って聞かず、近所の子供は息を殺すようにして震えていた。
兄は寒さに震える身を半纏で包み、ただただ弟の帰りを信じて山へ入る幾つかの道を廻っていたのだった。
話の食い違いはさて置き、まずは母親に無事を知らせようと兄は弟を連れて家へと戻る。
「あんたはまあ、こんな遅くまで!」
帰れば案の定母親の怒声が聞こえたが、それは同時に安堵の叫びでもあった。
再度わあわあと声を上げて泣く弟を尻目に、兄は村の櫓に待機している見張りの元へ弟が戻ってきた旨を知らせる為家を後にする。
ややあって夜空に一つ小さな花火。光と音だけの合図用のものだ。それを目に止めたのだろう山間を歩く火が揺らぎ、ぞろぞろと列を成して山道を下り始めた。直にあれらの灯もこの村へと戻り、なりを潜めるだろう。
しばらくは母親から渡された白湯を口にしていた平太だったが、村に戻ってきた灯の一つに父の姿を認めて家を飛び出す。父親は一瞬その顔に安堵の色を浮かべたがすぐさま険しい表情へと変え、平太の脳天へ抱擁の代わりの拳骨をお見舞いした。お陰で平太の目の中では星がちかちかと瞬く。
その後、父は平太の耳を引っ張り、村中へと頭を下げて回った。
さて、謝罪が終わり家に帰った後は再び兄と同じ言葉の応酬だ。栗拾いの後に何があったのか、平太は包み隠さず全てを家族へ話す。兄達が去った後背後に化け物が現れたこと。化け物の頭についた老婆によって逃げ遂せたこと。それらが起きたのはほんの短い時間だったはずなのに、随分時が過ぎていたこと。
無茶苦茶な言い訳に母はあきれ果て、兄は相変わらず「馬鹿言うな」と平太を小突いたが、父だけは低く唸って顎を擦った。
肌寒い部屋の中、ぱちりぱちりと囲炉裏が火を弾けさせる音だけが響く。
「おれ、嘘なんて吐いてねさ」
平太は真っ直ぐに父親を見て言った。やはり、父も兄達と同じようにこの馬鹿げた話を呆れて聞いているのだろうか。そう思えば今度は悔し涙が出てきそうだった。
しばらく神妙な面持ちを浮かべていた父親だったが、やがて少しだけ震えるような小さなため息を吐き、平太を見つめ返して囲炉裏の向こうから身を乗り出すと躊躇い勝ちに口を開いた。
「お前を助けたっちゅう、化け物の頭についた老婆。そりゃおれの母ちゃんかも知れんな」
父親の母さん。つまり平太の祖母。
それを聞いた兄は目を丸くした。父親が平太の与太話を信じるような反応をしたからだ。だが、構わず父は話を続ける。
「平太が生まれる前の話だ。こんな時季の夕暮れ時に母ちゃんが山さ入って、居ないようになった」
その頃はまだ平太の祖父もおり、父親は今日と同じように村の男衆と共に山へ捜索に入った。
それは三日三晩続いたが終ぞ彼女は見つからず。季節は秋を去り、冬を越え、春になった頃雪解けの茂みの間からボロボロになった母の着物と履物が現れた。ただ妙なことに辺りには骨も何も残っていなかったのだと言う。獣に襲われれば骨ぐらいは残るだろう。それはあまりに不可解過ぎた。
「きっと山祟りのものに喰われてしもた」
村の者は口を揃えてそう言った。それは昔から度々あった現象で、人々が畏れを抱いていた化け物の痕跡。
だからこそ村にはあの《言い伝え》があるのだ。
「東の山には物の怪が住む。逢魔ヶ刻にそこを越えちゃなんねえ」
夕暮れを支配する、人とは違う理を持つ者達が蠢く時間。
「かあちゃんもそれは知ってたのになぁ。きっと家族に食わせてやろうと、夢中になっちまったんじゃ」
優しい人だったから。そう言って父親は額を押さえた。
そう。優しい人だったのだ。だからこそ、平太は逃げ遂せた。
「はよ逃げなぁ」
そう言いながら、異形の虚口から伸ばした手で化け物の顔を覆っていたと思わしきあの老婆。
「平太。おめはおれの子供の頃によう似てる。かあちゃんはきっとわかったんだな。おめがおれの倅だって」
異形の一部となり果てて尚彼女は家族を守ったのだ。
その言葉を聞き、平太は綯交ぜになった感情を抱え唇を噛み締めながら静かに泣いた。