鳥籠―Toriko―
カルフェは息を吐き、早くもライトアップされる看板を見上げた。真新しいパブ。この古都にて、最大の店だ。中には単に酒と社交を楽しんでいる者から、いかがわしい仕事の話をしている者まで、様々だ。カルフェはその店に入ると、カウンターに座り、まずは軽い酒を頼んだ。何も頼まずに仕事だけ持って行くのは流石に無礼だと思ったからだ。軽い酒なのは、あまりに酒臭いとミュネに嫌われるからだ。
カルフェはリンゴ酒を頼んだ。というのも、リンゴ酒以外は、この古都独特の酒で、名前だけでは何が運ばれてくるのか皆目見当もつかないものばかりだったからだ。だが、パブの主人は、カルフェが旅人だと言う事を知ると、「勿体無い!」と大きく叫ぶように言った。幸い、彼の声は店の雑音に飲まれて響かなかった。
「兄さん、折角古都に来たんなら、これぐらいは飲まにゃ」
「でも、生憎、今、あまり強い酒は飲めなくて」
「大丈夫、リンゴ酒よりも酔わない酒があるんだよ」
店の主人は澄んだ翠色の瓶を取り出し、カルフェに進めた。リンゴ酒よりも弱いのならば大丈夫かもしれない。そう思い、カルフェが頷くと、店の主人はその瓶の中身をグラスに注いだ。乳白色の液体だ。ミルク系の酒だろうか。
と、カルフェの前にグラスを置かれた。
「ほらよ、これはおごりにしてやら、リンゴ酒も後でやるからねえ」
主人の妙な気前の良さに不気味さを感じつつ、カルフェは酒の匂いを嗅いでみた。何ともいえない匂いだった。若干、ヨーグルトを想うような匂いだろうか。だが、もう一度嗅ぐと、それも違うような気がする。
――ええい、飲んでみよう。
カルフェは恐る恐る飲んでみた。
そういえば、とカルフェは回想した。何時だっただろうか、ミュネを捕まえるよりずっと以前だった事は確かなのだが、カルフェの故郷には一人仲の良い幼馴染の娘――勿論いまでは逞しいおば……お姉さんだ――がいるのだが、気の強い彼女は、カルフェが少しでも好き嫌いの気を見せると、目敏く反応し、押さえつけてでも克服させようとする鬼軍曹のような事をしてくれていた。そんなある日、珍しく彼女はカルフェのためにと手作りの料理を作ってくれたのだが、それがものの見事にカルフェの苦手な食べ物ばかりを使っており、嫌がらせ極まりないメニューであった。その悪夢の様な時間の中で、悪夢の様な料理を押し流すように飲んでいた馬乳酒の味。苦手な料理の味と混ざり、何とも言えない嫌悪感をカルフェに起こさせてくれた恐ろしい融合。何年も経った今でさえも、思い出すと悪寒と吐き気がする。
まさに、その時の味だった。
カルフェは酒の入ったグラスをことりと置いた。
「おや、気にいらなかったんで?」
店の主人には悪いが、カルフェは印象の良い反応がすぐには出来なかった。しかし、おごりと言っては仕方ない。主人に恥をかかせるわけにもいかないだろう。カルフェはグラスを握りしめ、意を決した。こんなもの、ミュネを連れて潜り抜けてきた数々の危機に比べたら優しくて涙も出るくらいだ。まあ、涙はすでに出かかっているのだが。
「いや、不思議な味なもんで驚いただけさ。有難く頂くよ……だが、後で間違いなくリンゴ酒も頼む」
「おう、分かっていますわ」
カルフェはしっかりと主人が頷くのを見届けると、安心してグラスを持ち直して口をつけ、一気に飲み干した。乳白色の液体が流れ込むと同時に、あの悪魔の味が広がった。半分楽しんでやっているんじゃないかと疑うような、幼馴染の美しく歪んだ笑みが見える。彼女は元気だろうか。ミュネに初めて会わせた時は、どんな小賢しい手を使ったのか、あっという間に手懐けてしまった。その時も、随分元気そうだった。というよりも、彼女が弱っているところを見た事がない。いつか見てみたいものだ。
カルフェは溢れそうな涙を必死に堪えながら、空になったグラスを見つめ、ほっと一息吐いた。
店の主人は目をぱちくりとさせると、グラスを片付けて言った。
「おお、やるねえ、兄さん。弱い酒だなんて言うけれど、一気に飲むやちゃあんまりいねえよ。本当はいける口だろ? もっと強いのがお好みかい?」
「別にそんな事はないさ。ただ、あまり酔っちゃなん無くてね。……ところで、リンゴ酒は?」
「ああ、ああ、分かってるさ、はいよ。リンゴ酒がそんなに好きなんかい?」
カウンターにリンゴ酒の入ったグラスが置かれると、カルフェは慌ててそれを手に取った。一口飲むと、リンゴの甘酸っぱい匂いが口の中で広がり、それまでカルフェを支配していた有難くない思い出と味を押しやってくれた。
「そりゃそうと、兄さん、どの位滞在するんで?」
「そうだねえ、まだ決まっていないが、暫く滞在するつもりさ。滞在中も金を稼ぎたくて仕事を捜してんだが、旅人を雇ってくれそうなところもなかなか見つからなくてねえ」
「あらあ、そりゃお気の毒に」
店の主人がそう言った時、カウンターに違う客が座り込んだ。カルフェから二つ三つほど席を空けた隣だった。目立つ銅の外套を着た、恰幅のいい男だ。見たところの年齢は不詳。老けているのか、若々しいのか、さっぱりだった。
「いやあ、まいった、まいった」
男は座るなり言って、外套と同じ色の帽子を外した。
「いらっしゃい、こりゃご無沙汰だな。今日は何にする?」
「うーん、そうだなあ。うん、いつものでいいや」
声の感じからすると、カルフェと同年代とも取れる。とはいえ、カルフェもまた年齢不詳だと言われるので全く参考にならないのだが。
程なくして、男の前には美しく透き通るような赤色の酒が置かれた。男はそれを口に含むと、低く唸った。
「ううん、やっぱり、マスターの入れるこいつが一番美味い」
そう言って、音を立ててグラスを置くと、男は今気付いたように、カルフェを見やった。
「見慣れん兄ちゃんだね。余所者かい?」
「ああ、今日来たばかりの旅人だ」
「旅人」
男は目を細め、また一口酒を飲むと、大きく息を吐いて頷いた。
「そうかそうか。まあ、この古都を満喫するとええよ。見どころもばっちりだしねえ」
「この兄さん、仕事を探しているらしい」
店の主人の言葉に、男は「んん?」とグラスを置き、カルフェを見た。
「そうなんかい?」
カルフェは頷いて答えた。
「そうなんだが、なかなか見つからなくて困っている。養わなくてはならない奴もいるし、出来るだけ稼げるものがあればいいんだけれどねえ」
カルフェが言った時、店の主人がカウンターから消えた。馴染みの客が来たらしい。無意識に彼の背を目で追い、カルフェは溜め息を吐いた。
「稼げる口かあ」
男はグラスを片手に呟き、グラスの中身をゆらゆらと揺らした。そして、思いついたようにことんとグラスを置き、カルフェを見やった。
「それなら兄ちゃん、いい話がある。ちょ」
男に手招かれ、カルフェはすぐ隣へ移動した。すると、男は耳打ちするように、カルフェに言った。
「兄ちゃん、体力はあるか?」
「まあ、旅をやっているから一応は」
「……請負とかの経験は?」
彼の言う請負が、あまり穏やかな意味でない事がすぐに分かった。カルフェは男を見つめ、目配せした。
男は同じように怪しく笑み、グラスをぐいっと飲んで話を続けた。
作品名:鳥籠―Toriko― 作家名:幼 ゐこみ