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天が落ちる 老花月(抄)

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 その後の澄風は知らない。次に会ったのはもう剃髪をすませた僧形の澄風で、そこから先は大して変わっていない。確かに妙得の言うとおり、澄風に対して何も思わないではない。遠ざけたつもりでもいつまでもまとわりついてくるのを、いつまでも近付けきれずにいる根底にはやはり澄風に対する違和があるのだと思う。出家前の澄風の、あの夏の日の、大気中をざらざらしたものが飛び回っているあの屋敷の、病人を運び出した後室に風を入れようと戸を放ったあと遠くには彦山が鬱々として緑を重ねていた。所々べたつくものが床に残っていたが、新しい風が入って淀んでいた空気が霧散してからは数刻前の地獄絵は本当だったのだろうかと疑うまでに屋敷の中には何もなかった。ならばわるいものが住み着いていた場所はここにはもうないのだとと考えるのが自然だ。犬の子も下人も郎党もすべて土の中に埋めた。残っているのはあの男だけだと泰有は思う。
 珍しい話ではないなと妙得が言った。
「悪いものに当たったのだろう。それで一族郎党死に絶えたなど、よくある話だ。しばらく前に疫痢が流行ったし、それと似たようなものだろう。ただ目の当たりにして驚いただけではないか」
「はあ。澄風は気がふれてしまっていましたし、妻や郎党の遺骸は暑さのために腐敗が進みすぎて、何がなにやら皆目分からなくなっていたのでございます。疫痢かも知れませんが、もし――」
 もし気が触れてしまった澄風が皆殺しにしてしまったのだとしたらと思うのですよと泰有が言うと、あざけるように老僧が笑ってだからどうしたのだという。泰有は口をつぐんだ。確かに滅多な考えだとは思うしさしたる確証もない。ただそう言ってしまうことで払底する事ができない不安が、それこそ寺門に下った澄風を見て以来続いていて消えない。今でも泰有は澄風の元の名を呼ぶことに抵抗がある。幸いそんなことは今まで無かったが、もし名を呼んであの屋敷の中で屍になずんでいたものがよみがえったらと思うと腹の底が冷える。澄風は一命は取り留めたようだが正気に戻らなかった。半分以上狂ったようなのをなだめ落ち着かせて寺門に入れたところでようやく落ち着いたのが、今の澄風なのだ。だから、と目の前の老僧を見る。かの僧もやはり狂っているのだろうか。正常ではない、――と泰有は確信している。それを見抜けないわけではないのに、この僧は見抜いた上で笑っている。悟りに近づくことは、と泰有は思う。狂うことなのだろうか。いや、断じてそれはない。はずである。つかの間生じた留保を縫うように妙得の声が聞こえる。
「まあ確かに遺骸に執着はあるようだったのは、確かだ。……遺骸の女ではなく、女の遺骸にだ。死ぬことに興味があるだけではないようだったから、おもしろいと思って見ていた。人は見な死ぬものであるから、云々ということは措くとして、ひとまずの効能は愛欲を断つためであるな。もっとも他もある。しかしまあ、おもしろいことを聞いた」
 ではどうすれば良かったのかと妙得が言うのを聞きながら、どうにもしないことですと言うより他はなかった。死体の中から助け起こされた澄風を気味悪く思っても、平常においては何事もないのだ。ならば気にするだけ無駄ではないかと妙得が言うのにも一理ある。一理あるのだが、と泰有は思う。まるで天を眺めて落ちて来はしないかと思うのに似ている。
 どこかから吹き込んできた桜の花びらが廊の床を滑って流れていくのが見えた。冷たい風がその後を追ってどっと背中から流れ込む。自分はあの天が一度落ちたのを知っている。天が破れて現し世を通り地獄の果てまで落下して行く。あの男は人として生まれ修羅の道に臨み血を分けた子の失せたのを悲しみそうして死者に泥んでいる。そうして死んで仏門に生き帰った。もっとも同じ男なのかは知らない。ただ薄ぼんやりとした冷たい予感はして、それを気の迷いと言ってしまえばそれまでであるが、たまに当たるのだから始末に負えない。
 澄風はどこです、と妙得に聞いた。
「会ってどうする」
「どうもしません。鬼なら取って食おうと言うところですが」
「ほほう食うのか」
「食いません」
 ただいることを確かめるだけです、と泰有は言う。それでお前はどうするというのだと妙得はますます笑った。
「確かめて、何事もなかったとして、後のことはそのとき考えます。何事もなければそれでいい、何事もないのですから。……それが常ですから。天が落ちるかも知れないと思いながら日毎に空を仰ぐのと同じ」
「馬鹿なことを」
 ただ天が落ちるのを知っているという違いがそこにあるのか無いのかというだけの話だ。知ってなお笑っていられるのであればそれでよいと泰有は思うし、それでこそ師の僧であると思うのだが、大悟にほど遠い身からすればやはりその境遇にはたどり着けない。妬ましいことも多かった。口惜しいことも、忸怩とする思いも、未練も執着も未だ断てない。背中の方で許しの声が挙がるのを聞きながら一足に妙得の室に入ると、墨染めの袖が一人庭に向かって座している。
 澄風ではない。
 肩をつかんで引きずり倒すと危うくつながっていた首の皮がねじれて咽喉が開きながら中の管が露出する。どっと血潮が背からは見えなかった衣の前を染めていた。この男は、と泰有は思う。客の武士だ。遅れて来た妙得に対して人払いを申し出てから惨状は極力見せまいと後ろから死者を抱き抱えて体を起こす、そのそばからむっと新しい血潮のにおいが鼻を突いて思わず顔を背ける。今度は妙得は何もいわなかった。代わりに足早に去っていく足音で答える。
 とりあえず庭に降ろそうと思った。
 ――なにを笑っている。
 ねじ切れた首の穏やかに笑うようなのを見ながら、動くことはない死者の四肢の代わりになってよろよろ庭に降りる。遺骸にかけてあった薦の端を引きながら、そう言えば女の死体はと思った。桜の下に埋もれるようにあったはずだが、見渡す限り影もない。片付けたのだろうかと思いながら薦をかけてそれから血塗れた縁や床を眺めた。雑人でも呼んで戸板に載せて運び出してと算段をつけながら、澄風はと思った。薦の端から漏れた墨の袖をつくづくと眺めて薦を取る。やはり死んでいるのは先の武士である。肌着の上に緩く僧衣を着せかけて、それらしく整えてあったが運び出すときに崩れて半脱ぎだった。僧衣は澄風のものだろうか。僧衣がある代わりに武士の来ていた上衣は見当たらない。そうして山門で見た武士の後ろ姿を思い出した。道を行くのに門の影に入ってしまって大半は見えなかったが武士の後ろ姿だと思ったのは、装束の裾が鮮やかだったからに他ならない。そうして菰をかける手を止めて、墨の袖を着せたのは供養のつもりだろうかと泰有は思った。澄風は見あたらない。どこにもいない。
 ようやく戻ってきた妙得は、つれてきた雑人に矢継ぎ早に指示を出した後、雑人の足音が聞こえなくなってから長い息を吐いて怪事あったなと言った。
「して、どうする」
「どうもしません」