天が落ちる 老花月(抄)
出来ることがあったとして、いなくなってしまった澄風を捕まえることくらいだが、それとてさほど役立つわけではない。戸板に乗せられて墨染めの袖が運ばれて行く。やはり澄風の仕業かと思った。そう思って安堵している自らに気がついてなぜかと思う。澄風は同郷の輩で、自分はともかく澄風は自分を慕っているはずで、そうして同門の僧である。なぜやはりなのだろうか。あいつはけしからん奴だと思っているというわけでもない。腫れ物にさわるような態度で今一つ距離を測りかねていたが、少なくとも寺に入ってからの澄風の行いによこしまなものはない。品行の方正さや信の厚さがが妬ましかったのだろうか。確かにそれは否定出来ない。けれども自分は天が落ちてくるのを知っている。天は落ちるものだ。惨事ではあったが落ちるものが落ちたと知って、――ある意味ではそれが平常なのだ。ことに澄風に限っては、と思う。
災禍の目であると思った。渦の中心は奇妙に静かでも、周りでは暴風が吹き荒れる、それが常である。ぽっかりと脱落している、人にはそれが超然としているように見えてもそもそもないのが澄風にとっては常であるから超えるすらない。だから早く探さなくてはと思った。あれは災厄の目であり亡国の緒であり傾国の端で、山海経に見える魔物の類とさほど変わらない。そこまで見抜いて師の僧は室に上がるのを許したのだろうか。あり得そうなことで怖かった。もとより悟りに至るには、今悟れていないからここを離れなければならないから荒い手段を取ることも多い。詰まるところ悟りとはそう言うものかも知れない。ならばと泰有は思う。澄風は果たして悟りに近かったのだろうか。否、――と澄風を載せた計りの一方に身の雑事などを積み上げながらぼんやり思う。けして悟りに近いとか、近くないとかはこのことに関してはない。悟れるか、悟れないかの違いだけであって近いも遠いも無い。いつだって俺は悟れぬ、と泰有は思った。だから未熟者だしいつまでも結論に着かない。
考え事をひとまず胸の内に納めると、妙得を手伝って人払いに出る。もとより遺骸があって人を遠ざけてあったからあまり手間はかからない。どちらかと言えば、信の置けて口のかたい人間にそっと耳打ちをする方が良い。大方の指示は妙得が手配している様子だったが指示に漏れる些事や雑事はいくらでもある。要は死骸が女から武士になっただけ、と一通り指示から漏れた指示拾い終えて思いながら庭づたいに室の前に戻った。人払いが効いてしんとしている。花の庭には薦もなくて、よく目を凝らしてみれば所々の土の上に血のこぼれた後はあったがにじれば消えた。花の芥とひとかたまりにして庭の隅に寄せながら、室の床はこれより幾分力を入れて拭わなければならないと思う。拭ったところで消えるだろうか。敷物などはかえるにしても、床をかえるのは難事業だ。妙得なら気にしないのかも知れなかったが客が来たときのことを考えると何かと不都合なことが多い。
敷石から室にあがりながらふと花の咲いている空を見上げて、澄風の落ちてきた天とはどこにあるのだろうと思った。澄風が市井の人であったことも、修羅に立つ武士であったことも、親子の恩愛を断ちがたい畜生であったことも、そうして地獄をさまよっていたことも、そしてそれを一気に突き抜けていったことも知ってはいたが、落下の端があった天とは何かを知らない。次々と道を転げ落ちてゆくならよほど勢いがなければいけない。だから天だと思った。同郷の出ではあるが、人が知っている以上に澄風のことを知っているわけではない。天はどのようなところだろうと思った。天が仏法の満ち満ちている場所であるなら道を踏み外すこともないのになぜ転げ落ちたのだろうとも思った。振り返ってこの世は穢土である。天の土など知らない。出家後のぼうっとした、焦点の合わない、重さがないようなあの澄風も確かにこの土を踏んでいたがうっすらと間に膜があって、踏んでいるように見えても――踏んでいないのかもしれない。この世に踏み留まるのはその薄い膜一つで、それすら抜けてしまえばもうこの世界にすらとどまっていないのかも知れない。
天にあれば天人だったが、澄風が天人かと問われればそれは違う気がした。ましてや地の人でも、修羅でも、畜類でもない。地獄や餓鬼でもないような気がする。留まるところを知らず漂泊してゆく様はこの世のものではないような気がした。かといって鬼神の類でもない。なかったはずだ。
気づかぬうちにまた深い息が漏れて花の奥に見えるはずの山の姿を探した。曇りがちの空に山陰は浮かんだり沈んだりしてやがてもくもくたぎる雲の中に見えた山の形は都の山にも似ず、拳骨を並べたような故郷で見た彦山の姿に似ている。ああ今自分は幻を見ているのだなと思った。幻ならもっといいものを見せてくれてもいいのにと思う。
――この世は穢土だ。
室の内にはどっぷり血の跡が流れていた。それが敷石からこぼれて花の渦に吸い込まれてゆく。澄風はどこだろうと思った。火宅とはいえ仏の庭さえこの惨状なのだから、やはり安住の地はないように思える。俺はこの地からは離れられない、と泰有は思う。離れる術は知らない。澄風ならば知っているのだろうか。
早くしないと、と泰有は思った。早く捕まえなければ、遠いところまでとばされていってしまいそうな気がする。
作品名:天が落ちる 老花月(抄) 作家名:坂鴨禾火