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天が落ちる 老花月(抄)

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寺に来ていた武士らしい後ろの裾が、山門の向こうでゆらゆらするのを目の端に止めながら泰有が堂に戻ると、妙得がなにやら思案げに廊下に出るところだった。黙って頭を下げながらおやと思って動きが止まる。去っていった客の武士は妙得の客だったはずだ。案内に立ったのは泰有だったからよく覚えている。見送らなくて良かったのだろうかと思って眺めていると、妙得も泰有に気付いたのか、おやといって相好を崩した途端に注意がそれたのか抱えていた巻物を持ち直した。幅広の掛絵の端が中を泳いで子供が一人描いてある。
 その端を追いかけながら客人は、と妙得が言った。
「今し方お帰りになったようですが」
「間に合わなかったか」
 もう一幅あるようだったがその内実は知らない。ようやく端を捕まえて巻いている方は、しばらく前に先の武士が送ったものだったはずだ。確か重松殿と言う新進の武士で、東国の出であったが先の戦で功があった角で上洛して関係を結んでいる。お返しするつもりだったのだがと妙得は手元の掛絵を持ち直しながら山門のある方を見ていたが、長い息を吐いてきびすを返す。どうやら妙得は乗済に捕まったようだった。乗済はしばらく前に破れた築地のことで気をもんでいたから、金銭の管理に当たっている妙得に今朝からしきりに話をしたがっていたのを泰有も見ている。
 使いをやらなければなと妙得がつぶやくのが耳に入った。
「泰有、重松殿のところに行ってくれるか。渡すものを渡さないでいるうちに帰られてしまった」
「構いませんが」
 どうされたのですと絵を見ながら言う。一度送った絵を返して欲しいという話だろうか。不審に思ったのを見透かして取り違いがあったらしいと補足がつく。
「わざわざ来たことを考えると、きっと余所にやるつもりだったのだろう。探すのに時間がかかってな。取りに行ったら人に捕まってしまった。室に澄風を上げていたから大丈夫かとは思うが」
「何がいったい大丈夫だというのです」
 呆れかえって無言になるのを、歩みを止めた妙得が眺めた。確か澄風とは同郷だったなと言う。確かに澄風とは同郷だ。泰有が小僧として寺にいた頃、澄風は在郷の武士としてしばしば顔を出している。若いように見えて妙に年寄りなのだと泰有は思う。というよりもあまり変わらない。子供の頃から、元服の頃を経て背丈が大きくなったが通してあまり変わらない。それでも法会で稀に顔を合わすとき、知らぬ間に増えた皺や所作の落ち着きに少しずつ年を重ねていた様にも思えたが、寺の中で会うようになってからはまるで年を重ねていないように見えた。否その少し前から、と泰有は思う。
「泰有」
 老僧が不思議そうに言った。
「同郷と言う割には少しよそよそしいのではないか。儂が室に上げたと言ったとき、あの澄風が、と言った顔をお前はしていた。それを悪いことだとは言わぬが、澄風には何かあるのか」
「いえ、」
 あの男は少しばかり気が触れているのですよと捨てるように言った。
「寺に入る前ですが。澄風が在家のときに子供を亡くしていることはご存じですか」
「出家の因だろう。それは当人から聞いた」
「それですよ」
 しんと、と記憶をなぞりながら泰有が言う。泰有は石料の管理に携わっていたから、首座に言われて様子を見に出かけたのだ。稲の熟れるのにはまだ早い、夏の時期だったように思う。僧衣の透ける先に見える地面と、地に落ちた影とが代わる代わるはためくのを眺めながら歩いた記憶がある。草いきれのむっとしたのをどこかから風が吹いてよこして、また通り過ぎていってその先に目指す冠木の門が小さく見える。
「子供が行方知れずになったとき、確かに家中なのめならず慌てふためいたり、行方を案じて気をもんだり、悲嘆にくれていたのですよ。それが春のことです。そうして、やっぱり子供が戻らなかったので、連絡が有るまではしばらくそっとしておこうと思って――」
 夏だった。じっとしていると背から汗を噴くのを、少しでも和らげようと足を踏み出す。夏、夏夏夏、そうあれは夏安居の過ぎたあたり、地獄の釜が地面のすぐ近くまで上がってまるで地面そのものが茹で上がるようだ。笠の下で汗を拭う。夏の、と泰有が口を開く。今はあの夏の日ではない。
「それからしばらく経った日に、私は尋ねていったのです。出自は武士といっても田舎武士の、郎党の末席にあるような所帯でございましたからさほど広くはない」
 その家の門をぴったり閉ざして、蔀も上げない家が陽炎の中から立ち上がってきたときに、ぷん、と――虫の空音を聞いた気がした。蚊虻の羽音のようだったたが影もない。もとより真夏の道で、田畑は満々と水が張られている頃であるから蚊の一つでも飛んでいるのだろうとさほど気に留めずにまた一歩踏み出すとまた、今度は少し重い羽音になって聞こえる。虻か、蜂か、それとも少し軽くて肉蠅の、いぎたなくてらてら光るのを脳裏に思い描いてふといやな思いに捕らわれたのを、ふと手繰り直して肉蠅ですと言う。後から思い返してみると、確かにあの羽音だった。蜂でも虻でもない。澄風の屋敷の、その蔀と言わず壁と言わずに、小さな虫のびっしりと浮いているのを見たときは、さすがにぞっとしましたというと妙得はつまらなさそうに顔をしかめて先を促した。
「一族郎党、死に絶えていたのでございます」
「子供ではなく」
「子供ではなく。下人と、妻と、後は郎党でしょうか、見知った顔が二三人。庭で飼っていた犬の子が食いちぎったのかししむらが庭に野晒しになって、その脇でうずくまっていた犬も皆死んでいるのでございます。蝿などはだいぶ孵って、それよりも大きな虫がわく。干からびた皮を食む音が今でもよみがえるようで」
 苦いものを含んで笑うような表情になっているなと思いながら話を続ける。お前の話の方がよほど気味が悪い様に思えるがと妙得が言うのを、すべて見たままの誠でございますと言った。
「澄風は生きてございました」
 今も生きているのだから死んではいない。身を死人の腐り汁半分以上浸しながら、澄風その人自体は無事だったのである。数日碌にものも食わなかったようで、人を呼んで屋敷の中から運び出して湯浴みさせたときにはげっそり痩せていたが、血の脈も確かで命に別状は無かったのである。魂魄が抜け落ちたような、と泰有は言葉を足した。うまく表す言葉が思いつかない。ずっと譫言を言っていた気がする。