茜(あかね)
「しかし茜だけが五歳でニューヨークに行ったものですから、日本語も中途半端、ニューヨークの現地の学校に入れたのですが、私達が茜も自然に英語を学ぶだろうと思ったのが甘かったのです。茜は幼稚園も小学校も、小学校高学年になるまで、皆とコミュニケーションがとれないまま、アメリカでもなく、日本でもなく、どっちつかずの中途半端な子に育ってしまったのです。あの子は中途半端な人間なのです。やっと中学校辺りで友達ができたのですが、いわゆるガラの悪い連中とばかり付き合い、汚い英語を覚え、いつもハーレムの辺りで、夜遅くまで友達と煙草を吸ったり、悪いことばかりしていたのです。あの子は主人の転勤で生じた失敗作なのです」
「まあ、お母様、失敗作だなんて……」
そうして私は茜の母親と別れた。ただ悩みが尽きるどころか、いっそう深い溝ができた気分だったが、その時はまだよかった。次の日学校に行くと、
「fuck you!You cock sucker!」
「go fuck yourself bitch!」
「Eat shit and die!」
茜の英語での怒鳴り声が聞こえる。
「やめときや。全部聴いとったよ」
「こいつ母親から中途半端と思われてるぞね。父親の転勤が生んだ失敗作やと。母親がそう言っちょった。アメリカでも碌な友達がいなかったとね。こいつ失敗作や」
鎌田という奴が教室中響き渡る声でそう言う。皆も面白がって歓声を上げている。
「You fucking cunt」
「You motherfucking ass hole」
「fuck you you fucking fuck」
茜はもう半ば気が狂ったように鎌田に向けて英語で悪口を言っている。茜が英語で悪口を言っても鎌田は、
「やめときや」
そう言って、余裕の笑みを浮かべる。
私は鎌田の胸ぐらをつかんで鎌田の頬を思いっきりひっぱたいた。鎌田は、
「先生。だって本当のことやき」
「お前ひとの心ちゅうもんが分からんがかー。最低じゃ。お前は」
私は教室中響き渡る声で怒鳴った。皆も静まり返った。そして茜を職員室の奥の面談室に連れて行った。
面談室に入るなり茜は私に抱きつき泣き出した。茜はガタガタ震えている。もうワンワン泣きじゃくった。
「大丈夫。先生はお前の味方だ。先生はお前の味方だからな」
茜はずっと私の胸の中でガタガタ震えていた。その泣き声は私の胸の奥に突き刺さった。
私は彼女のこの一件でとてもつらい気持ちになり、なんというか深く傷ついた。傷ついたという表現が適当かどうかは分からないが、私は傷ついたという表現しか見当たらなかった。
そんな傷が治っているか、治っていないんだか、自分でもよく分からない時分の夏休みの高校の盆踊りの夜のことだった。
高校の女子達は皆、浴衣姿で盆踊りに参加した。私は東京ではあったがここ高知では珍しく、ほおずきが売っていたのでほおずきを買った。その時、茜を発見した。
茜は浴衣姿ではなく美脚を見せびらかせんばかりのショートパンツにキャミソール姿で盆踊りに来ていた。しばらく茜を眺めていた。茜の横に小さな幼稚園児くらいの子が綿菓子を持ったまま泣いている。茜はその子の前でしゃがんで声をかけているようだ。その時、校内に放送が流れた。
「迷子のお知らせです。五歳の松原たける君のお母様が総合案内で松原たける君を捜しています。見かけた方は総合案内までご連絡ください」
この子のことを言っていたのだろう。茜はひまわりのようなパッとした笑顔で子供に働きかけ、子供の手を引き、総合案内まで連れて行った。彼女の子供の手を引く後ろ姿を見ると、何ともあらわしがたい気持ちになった。無性にビールが飲みたくなった。飲んでいるところを生徒に見られても構わないと思うほど、やけになる様な気分だった。
“茜、本当は優しい子なんだな”
しばらく酔っぱらって、平静でなくなった。私は酔うといつも、たちが悪くなるのだ。
ほおずきの鉢を持ったまま、ふらふら射的場に行った。三百円を払い、射的をしたが一発も当らなかった。そして店員といっても役員なのだが、役員を困らせることを言った。
「なあ、この鉄砲いくら出せば買える?」
「すいません。鉄砲は売り物ではないので……」
「だからその売り物ではないものをいくらなら売れるかって聞いているんだ。金ならいくらでも出す。いくらだ」
「ではさっき外した景品を差し上げますからそれで……」
「こんなガラクタ興味はない。欲しいのは鉄砲だ」
「その鉄砲は今使うので……」
「さっきから客が全然入ってないじゃないか。でも鉄砲は四つもある。一つくらいなくても」
役員たちは皆困り果てている様子だった。そして奥で相談をしている。一人が出てきて言った。
「お金は頂きませんがでは一旦この鉄砲をお貸しします。祭りが終わる頃にこちらに返して頂けますか?」
そう提案してきたので、
「分かった」と言って鉄砲を手に入れた。
私は人気の少ないのぼり棒の辺りで、鉄砲にコルクをつめ打って遊んだ。なんか的があった方が面白いと思い、ほおずきの鉢を置き、数メートル下がりほおずきに向けてコルクを打った。しかし、なかなか当たらない。皆周りのものが、怪訝そうな顔をして見ている。
茜の声がした。
「You are crazy man」
「おう、茜」
「先生、鉄砲なんてもって何してるの。先生ってクレイジーね」そう言いながら茜は笑った。
祭りのラムネに落ちるビー玉のように心地よく笑った。彼女は本当にすがすがしい笑い方をするのだった。
「私にもやらせて」
茜もほうずきに向けてコルクを打った。二人で笑いながら鉄砲でほおずきめがけて打つ。
「先生クレイジーね。本当クレイジーね」
二人で笑った。茜はずっと、
「先生本当クレイジーね。本当クレイジーね」
そう言うのだった。
それは私と茜の夏の思い出だった。
私は国語の教師をしているせいか、この高校の文学の会の顧問をやっている。そこに茜が入りたいと言っているので喜んで歓迎した。そして茜が何回か文学の会に参加した。
彼女はその文学の会にやってきて折り紙の鶴を持ってきた。しっかり折れてなくしわくちゃのアヒルのような鶴だった。クラスの細野奈津美という女子が入院しているので一人二十羽ずつ、鶴を折るということになっているからだ。茜は、
「先生早くに来てごめん。でも私、鶴が折れなくて。鶴なんて折ったことないわ。昨日、夜中の一時までかけてやっとこの一羽。また鎌田達に笑われるのが嫌なの。先生、鶴の折り方教えて」
「分かった。でも文学の会終わったらでいいかな?」
「もちろんお願い」
そうして文学の会が始まった。私は、
「今月の文学の会の文学賞を発表します。選ばれたのは……」
茜は神妙な顔で私を見た。
「神楽朋美さんです」私が言うと、
「先生、私のは選ばれなかったのですか?」茜は言った。
「あとのみんなは次席だ」
「次席って何?どうして私の詩が選ばれなかったのですか?ちゃんと公平に審査したのですか?」