ナオを愛してやれ
『ナオを愛してやれ』
大学の構内を河合マモルが歩いていると、後ろから傘が差し出された。ふりむくと青いワンピースの服を着た女性がいた。それはマモルがよく知る女だった。
「風邪をひくわよ、マモルさん」と女はぎこちなく言った。
マモルの顔はみるみるうちに赤くなった。
「近くまで用があって来たの。大学を通り抜けるのが近道なの」と微笑んだ。
「おはようございます。ナオさん」
女はナオと呼ばれていて、中国人系ということ以外、マモルは何も知らない。
校門の近くまで二人は黙ったまま歩いた。
「これから講義?」
マモルは何も考えず首をふって否定した。
「講義は終わりました」
「そう、なら、わたしに付き合ってくれる?」と言った問い掛けに、マモルは子供みたいに赤らめたままうなずくだけだった。
ナオは悪戯っぽい眼で微笑んで、「良かった」と呟いた。
ナオは高橋カズオの愛人である。五歳年上の高橋カズオは幼馴染みで若き会社経営者でもある。
三か月前、高橋はナオをマモルは紹介した。
「俺の女のナオだ。見掛けだけ美しい女は腐るほどいるが、男にとっていい女というのは、ほとんどいない。まるで砂浜で砂金の粒の見つけるのと同じくらい稀だ。ナオはそういった女だ。分かるか、分からない? そうだろうよ。貧乏学生じゃ分かるはずもないか。そんなに簡単に分かるものじゃない。女を抱いて始めていい女というのが分かるんだ」と高橋は滔々と喋った。ナオは身体の線がはっきりと表れるチャイナドレスをして着ていて、セクシーというにはあまりも生々しい色気に満ちていた。しかし瞳はどこかガラスのような、ある意味で人間の感情というものを隠し偽っているような印象があった。
「何か顔についている?」とじっと見ているマモルに視線に気づいてナオは尋ねた。
「いや何にも……だんだん雨足が早くなっていく。ほら、前を見てください。車が来ますよ。ところで、雨は好きですか?」とマモルは突然と問うた。
本当は雨などどうでも良かったのである。突然、ナオの横顔にあの人の横顔が重なって、どうしょうもないほど胸が妙に高鳴ってしまった。それを悟られまいとして話をそらした。こういった経験は前にもあった。
「好きよ、特に六月の雨は好き、何もかも洗い流してくれる。洗われた緑が宝石のように輝き出すから。……マモルさんは?」
「僕も好きです」
「じゃ、同じね」
雨の中、身体をぴったりと寄せあって、ひとつ傘の下にいる。それだけでマモルの心は妙に興奮した。
「ねえ、大学で何を勉強しているの?」
「化学」
「化学って?」
美しく知的な顔立ち、それに澄んだ声、そういったものがマモルを虜にした。
「わたしも本当は大学に行きたかった。でも……」
「でも?」とマモルは立ち止まった。
「止めましょう」
「どうして?」
「過去は振り向かない主義だから」
それで話は終わり、そして二人は別れた。
七月の始め、強引に高橋はマモルを連れ出した。行き先は言わなかった。
その日は朝から夏を思わせるような強い日が射していた。二人を乗せた車は長い海岸線を走った。眼に映るもの、全てがまばゆいほど輝いていた。
やがて車は白い洒落たどこか古めかしい家についた。背後には小高い山が迫っていて、振り向くとすぐそばに青く輝く海がひろがっている。
「これは高橋さんのものですか?」
「そうさ、おかしいか?」と高橋は微笑んだ。
「いえ、でも、少しびっくりしました」とマモルは口ごもった。
「そうだな……普通どおり働いたって、金を得ることなんかできない、たとえ、いい大学を出たとしても。いいチャンスにつかみ、そして、度胸が必要だ。サラリーマン根性じゃ絶対不可能だ」と高橋はまんざらでもない顔をした。
白い雲がゆったり移動する空をまぶしげに見上げた後、高橋は「中に入れ」と命令した。
家のなかひんやりとしていていた。不気味なくらいに薄暗く、そして静かであった。ずっと誰もすんでいなかったかのようにひとの匂いというものを感じさせない。
「どうした?」と高橋は尋ねると、
「家のなかが少し暗いから」とマモルは答えた。
「この家は窓が少ないんだ。金持ちっていうのは、とことん私生活をのぞかれるのを嫌うのさ。この家は成金地主の別荘だった。そいつが借金で首が回らなくなった。俺が安く買い叩いたんだ。たぶん、一〇分の一くらいの値段だ。中庭を案内しよう」
「中庭?」
「ふん、趣味がいいのか悪いのか分からないが、中庭があるんだ。その回りの廻廊には白い円柱があって、まるで異国の宮殿のような造りだ」
扉を開けると、突然、まばゆい光が雪崩込んできた。思わずマモルは眼を細めた。しばらくして、ゆっくりと眼を開けると、プールのある中庭があった。
「どうだ? すごいだろ」
マモルはうなずいた。
プールの側にあった椅子に二人は腰掛けた。
「マモル、お前はクールだな。俺のガキの頃にそっくりだ。血のつながりはないが」と笑い出した。
「僕がニヒリスト? 高橋さんの誤解です」と言ったマモルを高橋は冷やかに一瞥すると青空を仰いだ。
「そんなことはどうでもいい、ところで、どうして家を出て、一人暮らしをした? 女のためか?」
「どうして、そんなことを知っているんですか! ただ、一人暮らしをしてみたかっただけです。それに女なんていません?」
「おい、まだ童貞が?」
「そんなこと、高橋さんに関係ないでしょ?」
「確かに関係はない。ところで、親父さんは元気か?」
マモルは黙っていた。
ナオがビールを運んで来た。ナオはグラスを二つ白いテーブルの上に置き、ビールを注いだ。
「青空の下で飲むビールは最高だ」
今度は打って変わって子供のような眼でマモルにビールを勧めた。
「昼間から?」とためらっていると、「そうさ、昼からビールさ。貧乏人が汗水流しているときに飲むのさ」と高橋はうながした。
「貧乏人は嫌いですか?」
「ナオ、聞いたか、貧乏は嫌いかって?」と高橋は狂ったように笑った。
ナオは微笑んだ。
「金はなければ女を抱くことは出来ないし、いい家に住むことも出来ない。そんなのが、どうしていいんだ? そうだろ、マモル?」
「そんなことは考えたことはないです」
高橋は怖い顔してマモルをじっと睨んだ。心の中まで見透かすような鋭さがある。
「いい顔をしているな、女が惚れる顔をしている。そうだろ? ナオ」
ナオは少しとまどった顔をした。
「このナオは俺が香港で買った女だ。十八で、まだ処女だった」
マモルはグラスの動きを止めた。
「この俺が女に仕込んだ。信じられるか? マモル」と確かめるような眼でマモルを捕らえた。
「処女を仕込むのは、簡単そうで難しい。ナオ、泳げよ」と高橋は命じた。
マモルはじっと高橋を見た。それに応えて高橋は微笑んだが、眼はどこか威嚇するような鋭さがあった。その間にナオは服を脱ぎ、鮮やかなピンク色の下着姿になり、プールに飛び込んだ。人魚のように泳いだ。
大学の構内を河合マモルが歩いていると、後ろから傘が差し出された。ふりむくと青いワンピースの服を着た女性がいた。それはマモルがよく知る女だった。
「風邪をひくわよ、マモルさん」と女はぎこちなく言った。
マモルの顔はみるみるうちに赤くなった。
「近くまで用があって来たの。大学を通り抜けるのが近道なの」と微笑んだ。
「おはようございます。ナオさん」
女はナオと呼ばれていて、中国人系ということ以外、マモルは何も知らない。
校門の近くまで二人は黙ったまま歩いた。
「これから講義?」
マモルは何も考えず首をふって否定した。
「講義は終わりました」
「そう、なら、わたしに付き合ってくれる?」と言った問い掛けに、マモルは子供みたいに赤らめたままうなずくだけだった。
ナオは悪戯っぽい眼で微笑んで、「良かった」と呟いた。
ナオは高橋カズオの愛人である。五歳年上の高橋カズオは幼馴染みで若き会社経営者でもある。
三か月前、高橋はナオをマモルは紹介した。
「俺の女のナオだ。見掛けだけ美しい女は腐るほどいるが、男にとっていい女というのは、ほとんどいない。まるで砂浜で砂金の粒の見つけるのと同じくらい稀だ。ナオはそういった女だ。分かるか、分からない? そうだろうよ。貧乏学生じゃ分かるはずもないか。そんなに簡単に分かるものじゃない。女を抱いて始めていい女というのが分かるんだ」と高橋は滔々と喋った。ナオは身体の線がはっきりと表れるチャイナドレスをして着ていて、セクシーというにはあまりも生々しい色気に満ちていた。しかし瞳はどこかガラスのような、ある意味で人間の感情というものを隠し偽っているような印象があった。
「何か顔についている?」とじっと見ているマモルに視線に気づいてナオは尋ねた。
「いや何にも……だんだん雨足が早くなっていく。ほら、前を見てください。車が来ますよ。ところで、雨は好きですか?」とマモルは突然と問うた。
本当は雨などどうでも良かったのである。突然、ナオの横顔にあの人の横顔が重なって、どうしょうもないほど胸が妙に高鳴ってしまった。それを悟られまいとして話をそらした。こういった経験は前にもあった。
「好きよ、特に六月の雨は好き、何もかも洗い流してくれる。洗われた緑が宝石のように輝き出すから。……マモルさんは?」
「僕も好きです」
「じゃ、同じね」
雨の中、身体をぴったりと寄せあって、ひとつ傘の下にいる。それだけでマモルの心は妙に興奮した。
「ねえ、大学で何を勉強しているの?」
「化学」
「化学って?」
美しく知的な顔立ち、それに澄んだ声、そういったものがマモルを虜にした。
「わたしも本当は大学に行きたかった。でも……」
「でも?」とマモルは立ち止まった。
「止めましょう」
「どうして?」
「過去は振り向かない主義だから」
それで話は終わり、そして二人は別れた。
七月の始め、強引に高橋はマモルを連れ出した。行き先は言わなかった。
その日は朝から夏を思わせるような強い日が射していた。二人を乗せた車は長い海岸線を走った。眼に映るもの、全てがまばゆいほど輝いていた。
やがて車は白い洒落たどこか古めかしい家についた。背後には小高い山が迫っていて、振り向くとすぐそばに青く輝く海がひろがっている。
「これは高橋さんのものですか?」
「そうさ、おかしいか?」と高橋は微笑んだ。
「いえ、でも、少しびっくりしました」とマモルは口ごもった。
「そうだな……普通どおり働いたって、金を得ることなんかできない、たとえ、いい大学を出たとしても。いいチャンスにつかみ、そして、度胸が必要だ。サラリーマン根性じゃ絶対不可能だ」と高橋はまんざらでもない顔をした。
白い雲がゆったり移動する空をまぶしげに見上げた後、高橋は「中に入れ」と命令した。
家のなかひんやりとしていていた。不気味なくらいに薄暗く、そして静かであった。ずっと誰もすんでいなかったかのようにひとの匂いというものを感じさせない。
「どうした?」と高橋は尋ねると、
「家のなかが少し暗いから」とマモルは答えた。
「この家は窓が少ないんだ。金持ちっていうのは、とことん私生活をのぞかれるのを嫌うのさ。この家は成金地主の別荘だった。そいつが借金で首が回らなくなった。俺が安く買い叩いたんだ。たぶん、一〇分の一くらいの値段だ。中庭を案内しよう」
「中庭?」
「ふん、趣味がいいのか悪いのか分からないが、中庭があるんだ。その回りの廻廊には白い円柱があって、まるで異国の宮殿のような造りだ」
扉を開けると、突然、まばゆい光が雪崩込んできた。思わずマモルは眼を細めた。しばらくして、ゆっくりと眼を開けると、プールのある中庭があった。
「どうだ? すごいだろ」
マモルはうなずいた。
プールの側にあった椅子に二人は腰掛けた。
「マモル、お前はクールだな。俺のガキの頃にそっくりだ。血のつながりはないが」と笑い出した。
「僕がニヒリスト? 高橋さんの誤解です」と言ったマモルを高橋は冷やかに一瞥すると青空を仰いだ。
「そんなことはどうでもいい、ところで、どうして家を出て、一人暮らしをした? 女のためか?」
「どうして、そんなことを知っているんですか! ただ、一人暮らしをしてみたかっただけです。それに女なんていません?」
「おい、まだ童貞が?」
「そんなこと、高橋さんに関係ないでしょ?」
「確かに関係はない。ところで、親父さんは元気か?」
マモルは黙っていた。
ナオがビールを運んで来た。ナオはグラスを二つ白いテーブルの上に置き、ビールを注いだ。
「青空の下で飲むビールは最高だ」
今度は打って変わって子供のような眼でマモルにビールを勧めた。
「昼間から?」とためらっていると、「そうさ、昼からビールさ。貧乏人が汗水流しているときに飲むのさ」と高橋はうながした。
「貧乏人は嫌いですか?」
「ナオ、聞いたか、貧乏は嫌いかって?」と高橋は狂ったように笑った。
ナオは微笑んだ。
「金はなければ女を抱くことは出来ないし、いい家に住むことも出来ない。そんなのが、どうしていいんだ? そうだろ、マモル?」
「そんなことは考えたことはないです」
高橋は怖い顔してマモルをじっと睨んだ。心の中まで見透かすような鋭さがある。
「いい顔をしているな、女が惚れる顔をしている。そうだろ? ナオ」
ナオは少しとまどった顔をした。
「このナオは俺が香港で買った女だ。十八で、まだ処女だった」
マモルはグラスの動きを止めた。
「この俺が女に仕込んだ。信じられるか? マモル」と確かめるような眼でマモルを捕らえた。
「処女を仕込むのは、簡単そうで難しい。ナオ、泳げよ」と高橋は命じた。
マモルはじっと高橋を見た。それに応えて高橋は微笑んだが、眼はどこか威嚇するような鋭さがあった。その間にナオは服を脱ぎ、鮮やかなピンク色の下着姿になり、プールに飛び込んだ。人魚のように泳いだ。