そこに海はなかった
翌日の空港はさほど混んではなかった。中央ゲートの前にある時計の近くで既に課長は待っていた。貧弱な体躯に不釣合いな大きなバゲージだ。薄い頭髪に銀縁眼鏡が嫌味だ。
高志は、足早に課長に駆け寄った。
「おはようございます。 どうもすみません」
「おはよう。上司を待たすか、お前は! チェックインするぞ」
好きになれない課長だと思った。
チェックインを済ませ、通関にもさほど時間は掛からなかった。
今回の出張に、高志は、密かな期待を寄せていた。もしかしたら、機内で優希に会えるかもしれない。彼女が勤める航空会社のカウンターで、チェックインしてから更に妄想とも思える期待は高まった。搭乗するまでの一時間余りがあまりにも長く感じられた。
もしも、機内で、優希と会えたら---。そんな---偶然なんてありえない。
それでも、もしも会えたら……。
定刻に搭乗のアナウンスは流れた。予め分かり切っていたことではあるけれど、課長と席を並べるのは気が進まない。高志は、混んでいないことを願った。全ての乗客が、搭乗して空席があれば席を移動しようと考えていた。しばらくすると搭乗が完了したらしくドアが閉められた。
「課長、空席が多く有りますから、広く使いましょう」
「あぁ」
課長に声をかけると、高志は、できるだけ、課長から遠い席に着いた。だけど極端に遠すぎてもいけない。微妙な距離感を保たなければならない。ビジネスマンは辛いのだ。
それから間もなくして、マニュアル通りの機内アナウンスの後、飛行機は定刻に飛び立った。
ぐんぐんと高度をあげて水平飛行に移った頃、「お絞りをどうぞ、後ほど、お飲み物とお食事をお持ちいたします」という声に高志は、顔をあげた。
そこには、完全な笑顔を貼り付けた客室乗務員の姿があった。
だけど、優希では、なかった---。
(当然だよな、そんな偶然なんて、ある訳がない)高志は、心の中で呟くと、「ありがとう」と、お絞りを受け取った。
結局、香港へ向かう機内では何も起こらなかった。
課長随行の二泊三日の香港の出張を終え帰宅した高志は、バゲージをベッドのうえに投げ出すと、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。プルタブを開けようとしたとき、留守電の点滅に気付いた。「はて誰だ?」最近は、固定電話の留守電に伝言なんて入ってることなんて珍しい。大抵は、携帯で用は足りるはずだ。