for the first
だがどうやら1限目だったらしい。そうでなければこの棟に彼女がいるはずがない。彼女の時間割は把握したつもりでいたのに、こんな時に勘違いをするとは。
念のために講義の要覧でチェックしなかった自分のうかつさが嫌になる。だが自己嫌悪に陥っている暇はない。はかったようにその時、講義五分前のベルが鳴った。とにかく、最低限の話はしなければ。
「……おはよう」
「ーーーー、お、はよう」
我に返ったのがあからさまにわかる反応。続けて彼女は何か言おうとしてか口を動かすが、言葉は出てこない。それをもどかしく思うらしい、ひどく困った顔は、よく見なくてもわかるくらいに赤くなってきている。
その様子に、こちらがどう対応すべきか悩んでいるのを、彼女も気づいたようだ。平静をよそおうとしてかえって慌てているのがわかるし、顔の赤さもだんだん大変な具合になりつつある。悪循環、という単語が確実に、互いの脳内に点滅している。
「っと今日、昼休みは飯行ける?」
自分から何か言うしか打開策はない、と思ってとっさに出たのがこんなことか、と自分で呆れる。あまりにも普通すぎて、いやそうではなく、もう一度ちゃんと謝ろうと思っていたんじゃなかったのか。
昨日別れ際に言ったとはいえ、当然あれで充分などとは思っていない。彼女も納得していたとは思えない。あらためてちゃんと時間を取って、と考えていたのになぜ今、一番時間のない状況で。
「……あ、ーーん、と大丈夫、たぶん」
深くうつむきながら答えた彼女の、表情はわからない。だが声だけでも、彼女なりにこの場をおさめよう、切り抜けようとしている懸命さは充分に伝わってくる。
今、時間がないのは互いに同じ。だからこそ一時的にでも気まずいままで別れたくない。彼女も同じように思っているはずだ。
そう考えたら、動揺がゼロになったわけではないが、覚悟のやり直しはできた。
「じゃ、いつもの、図書館の横で待ってる。それと昨日、……ほんとにごめん、約束したのに」
最後の「に」を言うのと同時に、びっくりするような勢いで彼女が顔を上げた。
「っあ、あの違うの、そうじゃなくて」
見上げてくる顔は真っ赤だが、ものすごく真剣な表情である。目も、赤いのだけど涙目とかではなくて、何かの決意に満ちたという雰囲気があり、思わず気圧されるくらいに目力が強かった。
さっきと同じ慌てた表情のままか、あるいは泣きそうな顔をしているとばかり思っていたので、意外だった。同時に、何かしらを心に決めた、といったふうな彼女はやけにきれいにも見えて、そんな場合ではないのにしばし状況を忘れて見とれてしまう。こんなことを考えているとは、彼女は想像もしないだろうけど。
ーー時間がない、というこの状況でなければあんなことを口にしなかったかもしれない、と後になって思った。彼女はすさまじい照れ屋だから。反面、今時珍しいくらいに真面目で正直で、だからこそ言わなければいけないと思ったのかもしれないが。
ずっと思い詰めていた、その思いを一気に吐き出すように、彼女は言ったのだ。
「びっくりしただけだったの、したことなかったから。だから、全然、嫌とかじゃなかったから」
「えっ」
と思わず返した瞬間、彼女の口は縫いつけられたようにぴたりと閉じてしまった。直後、今まで見たことはないしこれからも見ないんじゃないか、というレベルで、顔のみならず首までがいっぺんに赤くなった。漫画みたいに頭から湯気が出てやしないかとどうでもいいことを連想するくらいに。
……じゃ、また後で。消え入りそうな声で言うと彼女は早足で脇をすり抜け、階段の方角へ向かう。
聞いたことを理解するのに、7秒くらいかかった気がする。理解すると今度は、にわかには信じがたい思いでいっぱいになった。その思いから思考が復活するのに、さらにたぶん8秒ほど。少なくとも15秒程度、脳ばかり動いて体は動かずにいる間に、追いかけるタイミングを失った。いや、追おうという積極的な気持ちは起きなかったのだが、ともかく結果的に、彼女の姿が階段の上に消えるまで、立ち尽くしていることになった。
ーー彼女と元カレの同級生は、2年以上付き合っていたはずだった。しかも2ヶ月ほど前まで。なのに、そんなことってあるんだろうかーー二人が、彼女がキスさえしていなかった、なんてことが。
普通に考えれば信じがたい。だが、彼女ならあり得るかもしれなかった。手をつなぐだけで今も緊張するし、先ほどのようにすぐ赤くなる。自分とは単なる知り合いの期間が長かったのと、今の付き合い方に慣れていないことを考慮しても、相当に内気、奥手であるのは間違いなかった。が。
「…………ほんとに?」
そう呟いたのもすぐには気づかないくらい、まだ実感がついてこなかった。自分が、彼女のファーストキスの相手?
鳴り響く講義開始のベルも余所事のような心地だった。消えない驚きの感情と、じわじわと湧いてきて広がりつつある高揚感と、昨日の状況を思い返してもっとマシに、いい雰囲気を作ってからにできなかったものかと分析してしまう自分とが、ひしめき合っている。習慣的機械的に足を動かしながらも、頭は飽和状態で、好きな子の最初のキスの相手になれたという、わき上がる嬉しさを表情に出さずにいられるか、甚だ自信がなかった。
階段を駆け上がりながら、どうしよう、という思いで頭がパンクしそうな心地だった。さっきよりももっとずっと赤くなってしまった顔をどうしよう、教室に入って人の目が集中したら、友達に理由を聞かれたら。
あんなことを彼に言ってしまって、どうしよう。
作品名:for the first 作家名:まつやちかこ