for the first
『for the first』
……眠れなかった。
努力はしたけど、うたた寝レベルですら眠ってはいない。それならいっそのこと起きて何かしていた方がましだったかもしれないが、せめて少しでも寝て調子を整えておかないと、と思いこんだのがまずかった。
あんなことがあった後で、眠れるわけがない。思いだそうとしなくても事あるごとに頭をよぎるくらいなのに、何もせずに横になっていたら「あの時」のことばかり考えてしまうに決まっている。それが嫌で、違うことを考える努力をしても、何かのきっかけで思考はすぐに引き戻される。「あの時」の記憶が問答無用で頭をいっぱいにする。
本音を言うなら、できれば今日は休みたかった。でもそうはできなかった。今日提出しなきゃいけないレポートがあったし、余計な気遣いを彼にさせるわけにはいかないからーー
「おはよう友美、……ゆみ?」
その声にはっとして顔を上げると、中学からの友達で、同じ学部の小高七恵がすぐ横にいた。付き合いの長い子たちの間では「なーちゃん」と呼んでいる。
「ーー、あ、おはようなーちゃん」
「どうしたの? 目え赤いけど」
「えーと、ちょっと寝られなくて、うん」
「なんで。まさか今日のレポートで徹夜とか」
「そうじゃなくて、なんか寝つけなかっただけ」
「ふうん? 顔もなんか赤いよ、ひょっとして熱あんじゃない」
え、と思わず頬に手を当てる。確かにちょっと熱い。そう思ったのとほぼ同時に、反射的にかあっと熱さが増した。次の言葉が出てこなくなった。この流れで詰まってしまうのは不自然だ、まずい。その時後ろから走り寄る足音と、知っている声。
「おはよー何してんの二人とも」
高校が同じだった共通の友達だ。学部は違うけど次の講義が同じで、振り返ったなーちゃんが彼女と自然に話を始めてくれたことにほっとする。
二人に一言断ってその場を離れ、お手洗いへと走った。飛び込んだドアの先には、幸い誰もいない。
鏡を見ると、顔は本当に赤かった。それを自分で確認することで、また脳内で再現される「あの時」の記憶。それに引きずられて頬がもっと熱を帯びるーーこういうのを悪循環というのだろう。
次の講義まであと9分。せめて5分前にはここを出ないといけないけど、それまでに普通の状態に戻る自信はない。たぶん、いや絶対に無理。それくらいに昨日の出来事は私にとって衝撃的で、他の何かで紛らわすことがまったくできないでいる。
まさか、あんなことが起きるなんて。震えそうになる唇に力を込めてみても、昨日の感覚がよみがえるのは抑えられない。
想像もしていなかった。いや、可能性をこれっぽちも考えなかったと言ったらたぶん嘘になる。けれど考えないようにしていた。考えると緊張するし、考えずにいるのはそれほど難しくはなかった。
だって付き合っていると言っても形だけで、お互いに本気での意味は全然持っていないのだから。それに、彼はそういうことを無理矢理する人でも、相手が誰でもいいと思う人でもないはずだから、と。
……無理矢理されたわけでは、なかったけど。私も逃げなかったのだけど、とにかく今も、実際にあったこととは信じられないでいる。彼が私にキスしたことが、彼にキスされたことが。
その程度でこんなに動揺するなんておかしい、と人には言われるのかもしれない。だけど私にとってはそれだけの大ごとだったーー初めてだったから、正直、何もかもが今もよくわからない。
記憶自体はすごくはっきりしているのに、夢の中で起きたことみたいに、実感がとても遠い。そのくせ唇に残る感覚は変にリアルで、思い返すたびに、どこかへ消えたくなるほどに落ち着かない気持ちになる。
経験がないからそう思うだけとか、きっと深い意味はなかったはずだとか、落ち着かせるための理由付けを考えてみてもおさまらない。今も、動悸が苦しいくらいで、洗面台に手をついて支えていないと立っているのが難しい。洗面台のひんやりした感触も、ドキドキを抑える助けにはなってくれない。
次に会った時に平静でいられる自信はなかった。でも、そうしないといけない。そうするために今日は来たようなもの。なのに、家から大学に来るまでの間、ドキドキしながらびくびくしていた。行き帰りに偶然会ったことは今までなかったにもかかわらず、会ったらどうしようとばかり思って。
ーーだめだ、こんな調子じゃ。どう考えたって状況は変わらないのだし、なら私がしなきゃいけないことは決まっている。朝までさんざん考えたはず。
なかったことにしてふるまえるほど、器用じゃない。それならばせめて普通に、たいして引きずっていないという態度で接するしかないと、結論づけたはずだ。そのうえで正直に気持ちは話すと。
元彼と2年も付き合っていて、一度もキスしたことがないなんておかしいのかもしれないけど、信じてくれるかどうかはわからないけどーー私自身はそんなに変だと思っていなかったけど、一般的にはすごく不思議らしい。なーちゃんに話した時のびっくりされようで、そう思わざるを得なかった。
ともかく、彼が信じようが信じまいが、本当のことを説明するしかない。それが最善で唯一の方法のはずだから。
……それに、私以上に、彼は動揺しているかもしれない。本当の彼女でもない私にキスしたりして、今はきっと後悔している。あの時は雰囲気のはずみでとか、私にはわからない理由があったのだとしても、すぐに「しまった」と思ったはず。突然のことで固まっていたとはいえ、避けなかった私にも責任がある。
初めてだったからびっくりしたけど、大丈夫だから気にしないで、そう言うのが私の役目。
時計を見ると、ちょうど5分前になっていた。顔の赤さがさっきよりはましになっているのを確認して、深呼吸を1回、念のためもう1回してから通路に出る。
ーー出たとたん、その場で固まってしまった。お手洗いに人がいなくてよかった。いや、いる方がむしろよかったかも。誰かが出てくればそこに私がいるのは邪魔だから動くきっかけになったのに。
なんで今、なんだろう、彼に会ってしまうのが。扉を開けて出た、すぐ先の通路にいて、隠れる間もなく彼がこちらに気づいてしまうのが。
なんで今、このタイミングで彼女に会ってしまうのか。
朝から、いや昨夜から、どこで会いそうか可能性を考えまくって、全部のパターンにおいて心の準備をしていたつもりだった。2つある最寄り駅のうち朝に利用する駅は彼女とは違うから、一番早く会うとすれば正門前。そこで会わなければ、自由選択科目で教室が同じ棟になる講義の前後。それは2時限目、だと思っていた。
……眠れなかった。
努力はしたけど、うたた寝レベルですら眠ってはいない。それならいっそのこと起きて何かしていた方がましだったかもしれないが、せめて少しでも寝て調子を整えておかないと、と思いこんだのがまずかった。
あんなことがあった後で、眠れるわけがない。思いだそうとしなくても事あるごとに頭をよぎるくらいなのに、何もせずに横になっていたら「あの時」のことばかり考えてしまうに決まっている。それが嫌で、違うことを考える努力をしても、何かのきっかけで思考はすぐに引き戻される。「あの時」の記憶が問答無用で頭をいっぱいにする。
本音を言うなら、できれば今日は休みたかった。でもそうはできなかった。今日提出しなきゃいけないレポートがあったし、余計な気遣いを彼にさせるわけにはいかないからーー
「おはよう友美、……ゆみ?」
その声にはっとして顔を上げると、中学からの友達で、同じ学部の小高七恵がすぐ横にいた。付き合いの長い子たちの間では「なーちゃん」と呼んでいる。
「ーー、あ、おはようなーちゃん」
「どうしたの? 目え赤いけど」
「えーと、ちょっと寝られなくて、うん」
「なんで。まさか今日のレポートで徹夜とか」
「そうじゃなくて、なんか寝つけなかっただけ」
「ふうん? 顔もなんか赤いよ、ひょっとして熱あんじゃない」
え、と思わず頬に手を当てる。確かにちょっと熱い。そう思ったのとほぼ同時に、反射的にかあっと熱さが増した。次の言葉が出てこなくなった。この流れで詰まってしまうのは不自然だ、まずい。その時後ろから走り寄る足音と、知っている声。
「おはよー何してんの二人とも」
高校が同じだった共通の友達だ。学部は違うけど次の講義が同じで、振り返ったなーちゃんが彼女と自然に話を始めてくれたことにほっとする。
二人に一言断ってその場を離れ、お手洗いへと走った。飛び込んだドアの先には、幸い誰もいない。
鏡を見ると、顔は本当に赤かった。それを自分で確認することで、また脳内で再現される「あの時」の記憶。それに引きずられて頬がもっと熱を帯びるーーこういうのを悪循環というのだろう。
次の講義まであと9分。せめて5分前にはここを出ないといけないけど、それまでに普通の状態に戻る自信はない。たぶん、いや絶対に無理。それくらいに昨日の出来事は私にとって衝撃的で、他の何かで紛らわすことがまったくできないでいる。
まさか、あんなことが起きるなんて。震えそうになる唇に力を込めてみても、昨日の感覚がよみがえるのは抑えられない。
想像もしていなかった。いや、可能性をこれっぽちも考えなかったと言ったらたぶん嘘になる。けれど考えないようにしていた。考えると緊張するし、考えずにいるのはそれほど難しくはなかった。
だって付き合っていると言っても形だけで、お互いに本気での意味は全然持っていないのだから。それに、彼はそういうことを無理矢理する人でも、相手が誰でもいいと思う人でもないはずだから、と。
……無理矢理されたわけでは、なかったけど。私も逃げなかったのだけど、とにかく今も、実際にあったこととは信じられないでいる。彼が私にキスしたことが、彼にキスされたことが。
その程度でこんなに動揺するなんておかしい、と人には言われるのかもしれない。だけど私にとってはそれだけの大ごとだったーー初めてだったから、正直、何もかもが今もよくわからない。
記憶自体はすごくはっきりしているのに、夢の中で起きたことみたいに、実感がとても遠い。そのくせ唇に残る感覚は変にリアルで、思い返すたびに、どこかへ消えたくなるほどに落ち着かない気持ちになる。
経験がないからそう思うだけとか、きっと深い意味はなかったはずだとか、落ち着かせるための理由付けを考えてみてもおさまらない。今も、動悸が苦しいくらいで、洗面台に手をついて支えていないと立っているのが難しい。洗面台のひんやりした感触も、ドキドキを抑える助けにはなってくれない。
次に会った時に平静でいられる自信はなかった。でも、そうしないといけない。そうするために今日は来たようなもの。なのに、家から大学に来るまでの間、ドキドキしながらびくびくしていた。行き帰りに偶然会ったことは今までなかったにもかかわらず、会ったらどうしようとばかり思って。
ーーだめだ、こんな調子じゃ。どう考えたって状況は変わらないのだし、なら私がしなきゃいけないことは決まっている。朝までさんざん考えたはず。
なかったことにしてふるまえるほど、器用じゃない。それならばせめて普通に、たいして引きずっていないという態度で接するしかないと、結論づけたはずだ。そのうえで正直に気持ちは話すと。
元彼と2年も付き合っていて、一度もキスしたことがないなんておかしいのかもしれないけど、信じてくれるかどうかはわからないけどーー私自身はそんなに変だと思っていなかったけど、一般的にはすごく不思議らしい。なーちゃんに話した時のびっくりされようで、そう思わざるを得なかった。
ともかく、彼が信じようが信じまいが、本当のことを説明するしかない。それが最善で唯一の方法のはずだから。
……それに、私以上に、彼は動揺しているかもしれない。本当の彼女でもない私にキスしたりして、今はきっと後悔している。あの時は雰囲気のはずみでとか、私にはわからない理由があったのだとしても、すぐに「しまった」と思ったはず。突然のことで固まっていたとはいえ、避けなかった私にも責任がある。
初めてだったからびっくりしたけど、大丈夫だから気にしないで、そう言うのが私の役目。
時計を見ると、ちょうど5分前になっていた。顔の赤さがさっきよりはましになっているのを確認して、深呼吸を1回、念のためもう1回してから通路に出る。
ーー出たとたん、その場で固まってしまった。お手洗いに人がいなくてよかった。いや、いる方がむしろよかったかも。誰かが出てくればそこに私がいるのは邪魔だから動くきっかけになったのに。
なんで今、なんだろう、彼に会ってしまうのが。扉を開けて出た、すぐ先の通路にいて、隠れる間もなく彼がこちらに気づいてしまうのが。
なんで今、このタイミングで彼女に会ってしまうのか。
朝から、いや昨夜から、どこで会いそうか可能性を考えまくって、全部のパターンにおいて心の準備をしていたつもりだった。2つある最寄り駅のうち朝に利用する駅は彼女とは違うから、一番早く会うとすれば正門前。そこで会わなければ、自由選択科目で教室が同じ棟になる講義の前後。それは2時限目、だと思っていた。
作品名:for the first 作家名:まつやちかこ