カフカと慧眼
休憩時間、することがないのでぼんやりと窓のそとを眺めた。ガラスに映った自分の顔。その向こうに海がかすんで見える。
もう少しはっきりと海が見えたなら、不便な立地条件という前言を撤回しても良いと思った。
放課後、週に一度は行くようにしているところがある。県立の総合病院。そこに、俺の父親は入院している。
「父さん、会いに来たよ」
ベッドの脇に立ち、声を掛ける。
「寒くなってきたね。調子はどう?」
だが返事はない。いつものことだ。
三年前、父は交通事故に遭い、植物状態になった。
生きているのか死んでいるのかわからないような父親。
医学では、人を救えないこともある。延命措置で莫大な金を消費するだけの父親を見て、俺は虚しさを痛いほど感じた。
そして俺は、医者になる夢を捨てたのだった。
あのとき俺は十四歳だった。
見舞いを終えると神社に寄り道をした。そこに黒木慧がいるという保証はなかったが、俺には彼がいることが当然のように思えた。
予想通り、紺色のブレザーを着た背中が見つかった。俺は彼の隣に腰を下ろした。慧は俺に気付くと、ふわっと人の好さそうな笑みを浮かべた。
「いつも、ここで絵を描いているのか」
「うん、ここは静かでとても気持ちがいいから」
「たしかに」俺は頷いた。
「佳深は、昨日ここで何をしてたの」
俺は、あの忌々しい進路希望調査と作文という宿題の存在を思い出した。そういえば、まだ一文字も書いていない。
「……お前さ夢ってある?」
自分の口から出たとは思えないような恥ずかしい質問に、俺は赤面した。まだ会って間もないような相手に、何を聞いているのだろう。
慧は鉛筆を走らせながら、 「世界中を、絵を描いて旅してみたい」と言った。「いろんな人間や、動物や、街や、海や、山を描いて回るんだ。世界のありとあらゆるものを、この目で見て絵にしたいな」
実に素晴らしい答えだ。夢がある。これを望月に聞かせて差し上げたい。
「画家になるのか」
慧は小さく首を振った。
「うちは、漁師なんだ」彼はそう言った。「僕は一人息子だから、家業を継ぐよ」
望月がこれを聞いたらなんと言うだろう。夢の儚さ、そして現実の強靭さ。現実は俺たちがどんなにもがいても、平気な顔でそこに立っている。いつも。
俺は慧の手元にあるスケッチブックに目をやった。慧の腕や肩には、たしかに画家にしては筋肉がつきすぎている。鉛筆よりも漁網を持つ方が似合うといえば、そうかもしれない。
華麗に鉛筆を操る右手を、魚を捕るために使う慧を想像しようとしたが、うまくいかなかった。
「佳深は、将来何になるの」慧が尋ねた。
「春の野に咲くスミレ」
仕方なく、俺はそう答えた。
「詩人だねえ」
慧は感心したように言った。
話しながらも、彼の右手は驚くべき速さで動いている。ふと僕の脳裏に、大自然や見知らぬ異国の街中を、スケッチブック片手に歩き回る慧の姿が浮かんだ。
「お前なら出来るよ、きっと」心の底からそう言った。でもそれは嘘に近かった。
俺たちは所詮、与えられた運命に従って生きるしかない。
その日描いた何枚かの絵を、慧はすべて俺にくれた。完成した絵には興味がないらしい。今まで描いた絵も、残らず捨ててしまったと慧は語った。
「ただいま」
「おかえりなさい。最近帰りが遅いのね」
なんだか嬉しそうな母の声がする。
寄り道していることを、母は喜んでいるようだ。
――あなたにも一緒に遊ぶ友達が出来たのね。
高校に入ってから今まで、俺には慧のような存在はなかった。
リビングのパソコンを立ち上げ、「高校生 絵画 コンペティション」と打ち込む。無数のページのなかから、賞金の最も高いものを選んでプリントアウトした。漠然と、金が必要だと思った。
自室に入り、鞄のなかの参考書を本棚へとしまう。
白い壁に囲まれた、窓のない殺風景な部屋。
慧からもらった何枚かの絵を、何かの表彰状が入っていた額縁に入れた。壁に掛けると、部屋の様子が一変した。
それまで閑散としていた部屋に、新たな息吹が吹き込まれた。
六畳のギャラリー。
それでも、いいじゃないか。
俺は思う。漁師になったって、絵を続けることはできる。現実に対抗しなくたっていい。画家という形にこだわる必要はない。こうやって、作品がしっかりとこの世にあるのだから。
かつての俺なら、こんな考え方はしなかったであろう。
すっかり秋の匂いがするその金曜日、俺は神社の石段に座り、慧が絵を描くのを見ていた。放課後、夕方の空は橙色に染まっている。
――作文は書けたの、田中くん。
望月の声が蘇る。帰ろうとしていた俺に彼女はそう聞いた。
――来週までだからね。
望月はそう言ったが、来週になろうと再来週になろうと俺のなかには現実しかないと思えた。
サラサラと、鉛筆の走る音だけが響く。
「できた。ちょっと見てくれない」
慧は俺に一枚の絵を差し出した。
いつものように俺たちは石段に座っていた。
俺は絵を受け取ると、じっくりと眺めた。神社の風景画だ。鉛筆で、黒一色の濃淡だけで描かれているにもかかわらず、実物よりも鮮やかな鳥居の赤や木々の緑がそこにはあった。 モノクローム特有の、何処か寂しいあの感じはまったく無かった。
「どうかな」
「なあ、この絵、何かのコンクールに出さないか」
絶対に賞がもらえると思った。しかし、慧は何度勧めても断るばかりだった。
「賞が欲しくて描いているわけじゃないよ。僕は絵を描くことだけを、目的にしていたいんだ」
「コンクールで賞金をとったら、もっといい鉛筆や絵の具が買えるんだぜ」
俺は説得を続けた。
しかし慧は首を縦には振らなかった。
「僕は、今持っている画材だけで十分だよ。画材にお金をかけようなんて思わない」
「どうして? 良い道具を使ったほうが、良い絵が描けるんじゃないのか」
「どんなに良い画材を手に入れたって、情熱がなきゃ良い絵は描けない。いくらお金を持っていても、幸せじゃない人がいるのと同じように。そう思わない?」
慧はそう言って、俺の目をまっすぐに見つめた。
俺はそのとき、叫びたくなる思いがした。
自分のしようとしていることが、正しいのかどうかはわからなかった。
欲のない絵描きのために、俺は一枚の書類に必要事項を記入した。全国規模の高校生対象絵画コンクール、その応募用紙だった。慧にもらった絵のなかから一枚を選び、応募用紙と共に茶封筒に入れる。
ポストに投函すると、俺はそのことを頭の中から追いやった。
4
その昔、父はかの有名なフランツ・カフカの名を俺に与えた。
田中佳深。発音しにくいが、この名前を俺はわりと気に入っている。
昼下がり、病院の個室。ベッドの上には父が穏やかな表情で眠っている。
電子辞書で「カフカ」と引くと、彼の代表作は『変身』であり、実存主義作家と呼ばれることがわかった。
実存主義だったというカフカの名前が、俺の現実主義を形づくったかどうかはわからない。父が植物人間ではなく毒虫になっていたら――そんなことを考えかけて、やめた。
なんとはなしに「慧」と引くと、慧眼という言葉がめを引いた。 慧眼――真理を見抜く人。
電子辞書を閉じた。
……真理か。
真理と現実という言葉の距離を思い、慧の描いた絵を思い浮かべた。