小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

カフカと慧眼

INDEX|3ページ/3ページ|

前のページ
 

理想と現実との距離ほどには、遠くはないだろう。
「父さん、俺は慧眼と友達になれるかな」
父は黙っている。微動だにしない父の顎ひげが、少し伸びていた。 父は確かに生きていた。 俺は黙って泣いた。

「将来の夢は見つかった?」
望月が尋ねる。作文は書けたのか、ではなく、彼女はそう聞いた。放課後の教室には、窓のそとから暖かい陽射しが差しこんでいる。春のような陽気。
「夢ってなんでしょうか」
俺は、真剣に問いかけた。
「何だろうねえ」
望月は窓のそとに目をやった。つられて俺も視線を動かす。 遠くに海がはっきりと見えた。 この学校なかなかいい場所に建っている。
「それが知りたくて、私は教師になったのかもしれない。いろんな子の夢を叶えてあげたくて」
望月は、夕日に照らされた頬に微笑を浮かべた。
「わかります、なんとなく」
心の中の声が、口に出てしまった。
「あら、そう? でもあなた、教師には向いてないわよ。虚無主義に過ぎるわ」
「わかってます、とてもよく」
望月が声をあげて笑った。
望月は結局、作文のことは一度も口に出さなかった。俺は少しの罪悪感を憶えた。

その報せは忘れたころにやってきた。
自宅のポストに入っていた封筒を、慌てて切り、中身を確認する。期待通りだ。
神社まで走り、慧にそれを渡す。
「全国絵画コンクール、一次審査合格通知」
慧はそれを見て、しばらく黙り込んだ。余計なことをしたのだろうかと、俺は不安になった。
「びっくりした」目を見開いて慧は言った。
「勝手に送ってすまない」
「いや、いいんだ」
そっと慧の顔を見た。慧の目は潤んでいた。
「ありがとう。見知らぬ誰かに評価されることが、こんなに嬉しいとは思わなかった」
俺にはずっと考えていることがあった。家でも学校でも、勉強中も食事中も、ずっと。 その言葉が、ふいに舌先をはなれた。
「画家に、なれよ」
秋風が優しく吹き、木の葉が舞った。
「ありがとう」慧が微笑んだ。
照れくさくて、目を逸らす。十月の陽射しに照らされて、なにもかもがきらきらと光っていた。

5

慧が事故に遭ったのはその翌日だった。

母からその報せを聞いた俺はすぐに病院に駆け付けた。
二階の個室に、黒木という名前が書かれていた。病室のドアを開けると、包帯で腕頭をぐるぐると巻かれた、痛々しい姿の慧が目に飛び込んで来た。彼の表情には、まったく生気がなかった。
そして彼の隣には、どこかで見たことのある顔をした男が座っていた。背の低い、がっちりとした体躯。
「君は?」と男が尋ねる。
彼はよく見ると、初めて会ったとき慧が描いていた人物画と同じ顔をしていた。「慧さんの、友人です」
走って来たため、俺の息は上がっていた。
男は慧の父親だと言った。近寄ると、たしかに海の香りがした。
「状態はどうなんですか」
男は曖昧に微笑んだ。もう永くはない、とでも言うかのように。
しかし体を起こしているところからして、慧の命に別状はないようだ。右手にも包帯はなく、俺はすこし安堵した。
「怪我は大丈夫か」
俺は慧に声をかけた。彼は黙っている。
「……慧?」
俺は慧の顔を覗きこんだ。
そして、俺はようやく気付いた。慧と、まったく目が合わないということに。
慧は視力を失っていた。

どれくらいの時間が経っただろう。いつの間にか慧の父親は病室を後にし、俺と慧だけが残されていた  何と言えば良いのかわからない俺に、慧はぽつりぽつりと状況を、説明した。
交通事故は、信号を守って横断歩道を渡っていた慧の横からバイクが突っ込んでくるというものだった。犯人は、捕まっていない。  事故の衝撃で慧の両目は角膜が損傷し、いっさいの視力を失った。
いつも、そうだ。
現実は美しい夢をいとも簡単に轢き殺し、走り去ってゆくのだ。
いつも、そうなのだ。
「目を失って、ひとつだけ気付いたことがあるよ」
慧は静かにそう言った。病室には白いカーテンがかけられ、昼間なのに蛍光灯が白々しい光を投げている。
「僕は、絵を描くために生きていたんだ」
慧が顔を俺の方へ向けた。見えていないはずなのに、その両目に捉えられると身動きが取れなかった。
「これから、なんのために生きていけばいい?」
慧は失敗作の笑顔を浮かべて俺に問いかけた。
何も言えなかった。どんな言葉も、口にするにはあまりに重すぎた。
沈黙を破るかのように、慧の頬を一筋の涙が伝った。あとからあとから涙が流れる。
「なんのために生きていけばいいんだよ……」
その言葉は悲鳴のように俺の胸を貫いて過ぎた。
慧が視力を取り戻す方法はただひとつ、角膜を移植することだけだった。
ドナーが見つかる可能性はゼロではない。だが、いつできるのかわからない移植手術に希望を持ち続けることは簡単なことではない。
それまで慧が持ちこたえられるかどうか、問題はそこだ。
描くことを渇望した彼にとっての目は、命よりも大切なものだった。無くては一秒も耐えられないものだったのだ。

6

家に帰るとまっさきにパソコンを起動した。
「角膜 移植 ドナー」
無駄だとわかっていた。それでも、そうせずにはいられなかった。
一日でも早く、彼に視力を。
それだけが俺の願いだった。
ベッドに横たわり目を閉じる。俺の上にも暗闇が落ちてきた。
気づけば朝だった。
日は上り、小鳥はさえずる。秋の香りのする銀杏を踏みしだきながら、俺は坂を上る。
信じがたいが、慧が視力を失っても日常はなお日常のままであった。
坂を上り教室に着いても、普段と変わらぬ風景が続いた。
整然と並ぶ椅子と机。その間に散らばる生徒たち。黒板、時計、教卓。
そう、誰も悲しんではくれないのだ。
ぼんやりと黒板を眺めた。教師の声は、俺の脳には届かない。
――なんのために生きていけばいいんだよ ……
慧の叫びが再び頭の中でこだまする。慧の痛みが、俺にはむしろ羨ましかった。

俺には失うものすらない。目標のない、平坦な毎日。それを変えてくれたのが、慧の絵だった。
俺には、慧が失くした目を持つ資格なんてあるのだろうか。

その日、俺は二枚の書類に署名した。
一枚は、ドナーカード――臓器提供意思表示カード。死後の臓器・骨髄提供の意思を表示したカードだ。小さなカードにペンを走らせ、眼球のほか、心臓、腎臓などすべての臓器に丸をつけた。  そしてもう一枚の書類、短い手紙を茶封筒に入れる。封はしない。宛名には、家族とたった一人の友人の名を強く記した。
十七年間の人生に打つ終止符として、その手紙、遺書をそっと机上に置いた。

僕は慧の視力のために命を捧げることに決めた。悲しみも恐怖さえもない。ただ友の幸福を願う気持ちだけが、胸のなかに甘く広がっている。

静まり返る部屋の白い壁に目をやった。そこには慧が描いたスミレの絵が飾られている。それは美しい紫色をしていた。
机の上に横たわるナイフを手にとった。鋭く光る刃を、迷わず首筋に押し当てる。
目を閉じると、光が見えた。

かつて、天才数学者・岡潔は 「情緒とは何ですか」と聞かれてこう答えた。
「野に咲く一輪のスミレを美しいと思う心」
作品名:カフカと慧眼 作家名:maugham37