赤秋(せきしゅう)の恋
5
「忘れてしまったようですね」
春が勤めて最初の給料日。給料日はささやかな夕食にパートの人を招待した。パートの人を雇うようになった時からの行事であった。
ワインが出され、4人で乾杯した後の、ちょっとした会話の途切れたときであった。
「何か約束したのかな」
「12年前の事です」
「春さんに逢っていた?」
「はい。雪の日です」
「全く分からない」
「電車が遅れて、美大の試験に間に合わなくなりそうで、8時までに試験会場まで着くようにお願いしたものです」
「あの時のお嬢さん」
A市から東京までは高速を使っても1時間30分はかかる。雪道では時間の約束は出来なかった。時計を見ると5時35分であった。2時間半で行ける自信はなかった。
「8時までに着くか、わかりませんよ」
「私の人生が掛っているんです」
「ふつうはホテルに泊るでしょう」
「はい。そうなんですが・・」
雅夫は余計な事を言ってしまったと思った。
「乗ってください」
積雪は10センチほどあった。高速に入ると、除雪されていて60キロ制限であったが、雅夫は80キロまでスピードを上げた。時間を稼ぎたかった。首都高速に入る手前から、通勤時間になったために渋滞となった。
「絵が好きなんだ」
「はい」
「先生になるのかな」
「分かりませんが、絵のお仕事なら」
渋滞時間は話す余裕があると思ったが、彼女はノートを観ていた。ルームミラーからその様子が観えた。会場に8時10分前に到着した。
「料金は」
「あとでいいから、時間ないから」
雅夫は彼女に急ぐように言った。その帰り道、雅夫は追突され、首を痛めて1カ月ほど休職していた。
春は3日後にタクシー乗り場に行ったが、まるでどんな車だったかどんな顔だったかも覚えていなかった。電話帳で調べた3社のタクシー会社に
「12月3日に東京まで乗ったものですが、その運転手さんはおられますか」
「うちの車ですか、名前は分かりますか」
3社のタクシー会社とも運転記録を調べてくれたが、雪の日に東京に行った車はないと言った。
それから3日ほど駅前でタクシーを調べたが、おぼろげに思いだした容姿に出会うことは出来なかった。
春は美大に合格し、卒業後は2年間大学院で学んだ。大手の美術商の援助で5年間パリに留学した。エッチングでは名が知れ始めた。繊細な曲線からの浮世絵を感じさせる美人画は国際的な評価を得ていた。号あたり5万円ほどの評価となった。
作品名:赤秋(せきしゅう)の恋 作家名:吉葉ひろし