無条件降伏からの歳月
「諦観じゃなくて、人生を正視する心の余裕ができたのだよ。藻を掻き分け頭角を現して泳ぐことから解放されたら、人生の終末が待っている。終末を意識するとき人間は、過去を捨てて未来に向かうものだ。昔は木造の家を洗い屋に洗ってもらったものだが、それと同じように自分自身を洗うことで長年の汚れを落とし無垢の心に戻る。これまでの人生で知らぬ間に着けた心身の汚れを落とし、罪障消滅を願う。これが未来への出発に当たっての心得だよ。僕はその境地にいま立っている。これは能動的なもので諦めの境地ではない」
父は諦観と言う言葉に抵抗したのだと真理は思った。八十歳でなお自立している父らしい反応であった。安心して暮せる年金生活が保障されているからだろうと勘ぐってもいる真理だが、それだけではなくて精神的自立が身についているのだという思いもあった。人生の終末期の過ごし方を父から学びたい気持も湧いている。高齢者を弱者に仕立て上げるような行政の発想に抵抗している父の姿勢がまぶしい。世俗の欲を捨てて生きることで自分を溌剌としている。それが高齢者の身に合った生き方であると教えているようであった。
高齢者の生き様が社会の大きな問題になっているけれども、それも平和を前提にしてのことである。日清・日露戦役以後、昭和の敗戦までこの国は戦争の連続だった。敗戦でしか平和は得られなかった。この平和を複雑な気持で受容して来たのが父・三平たちの戦争世代だと真理は理解している。
無条件降伏したこの国がその屈辱をバネに高度成長したのだが、金融危機で没落し、アメリカ型の市場原理主義に呑み込まれている。終身雇用・年功序列によって安定した経営が自他共に認められていた日本的経営は没落し、バイト、派遣、契約社員などの非正規労働が規制緩和によって増え続けている。社会の不安定化がそのために加速しているのだ。
「日本は変わったと肌身に感じるのは我々、アバン・ゲール〈戦前派〉だが、日本人の思考や行動様式の戦後の変化を自ら進んで受け入れているアプレ・ゲール(戦後派)は日本のアメリカ化に矛盾を感じていない。これほど順化力のある民族は世界では稀だろう」
と父・三平が、あるとき言ったことを真理は思い出している。
その真意はわからないが、多分に違和感を抱いているだろう事は想像できるのだった。
このとき、真理の脳裏に浮かび上がったのは、まだ幼い頃に父と訪ねたシアトルで、戦艦ミズリー号を見学したことだった。アメリカの独立記念日でシアトルの市役所玄関ホールに、Unconditional Surrender of Japanと書かれたパネルが掲げられていた。港に足を運ぶと、戦艦は誇らしげに見えた。
(了)
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作品名:無条件降伏からの歳月 作家名:佐武寛