かざぐるま
小説:かざぐるま
佐武 寛
一
一郎が猫の足を踏んだ。ベランダで寝ていた猫はすばやく立ち上がって部屋に逃げ込むと一郎の顔を睨む。その間、声を発しなかった。一郎とこの猫は仲間である。猫は茶と白と黒の三色でからだを包んでいる。かなり大きなからだが膨らんでいた。明らかにおこっているのだ。一郎はベランダからにらみ返している。ベランダには夏の昼下がりの太陽が照り返していて暑い。
「てめえはどうしてこんなところで寝ていたんだ。俺はそれがわからんのだ。俺には暑すぎて居るどころじゃない。そんな毛皮を被っていてよく平気で居られたものだ。俺はトンボが飛んできたから捕まえてやろうと思ってベランダにとびあがったのだ。お前が居るとはおもわなかったよ。悪いのはここに居たお前だ」
一郎は猫に説教している。猫は膨らんだからだのままでじっとしている。一郎はトンボを逃がした口惜しさで手にしていた網竿を猫に投げつけた。猫はとっさに飛びのいて部屋の奥に下がったが、また座りなおして一郎に向き合った。網竿の落ちる音が畳から跳ね返える。同時に猫は居場所を移した。
「このやろう。網をかぶせてやろうと思ったに逃げやがった。それならさっさと姿を消せば良いのに何故まだそこにすわってるのだ。俺をなめてるのかよう。捕まえてやるからじっとしておれよ」
一郎はベランダからさっと降りてくる。猫は逃げないで待っているように一郎を見詰めている。先ほどまでの腹のふくらみは消えて目も優しくなっていた。だが一郎が近くに寄ってくると、突然、飛び掛ったので、一郎は不意を突かれた格好でよろける。そのときに、古畳がガサガサなった。
「このやろう、飛びかかってくるな。俺が行くまで待ってればいいじゃないか。まだ怒ってるのか」
一郎に抱かれた猫は歯も立てなかったし爪で掻きもしなかった。奇襲して一郎を驚かしたのだ。猫にも作戦がある。優しそうな顔をして待っているように見せかけて急にとびついたのだった。抱かれながら優しく鳴いた。一郎はその頭を撫でてやる。
「エサをやるからまっとれよ。俺の部屋に置いてあるんだ」
一郎はバサッと猫を下におろす。猫は一郎の後を追って着いてゆく。
「待てと言っただろう。俺の部屋は秘密の部屋なんだ。誰も入れないことにしている。お前だっておなじだぞ。絶対、入ってはいけない。外で待ってるんだ」
一郎は小さなからだをせかせか動かして部屋に向かう。猫は一郎の言ったことがわかったのか、途中で座った。一郎は古びた木のドアを開けて中に入るとぴしゃっと閉める。この部屋はフローリングの床で壁際にベッドが置いてある。窓が枕の側にある。これは昔式の洋風窓で白いペンキを塗った木の格子がガラスに嵌めてある。部屋の中には背の低い木の本棚が一つベッドとは反対の壁際においてあって、その横に小さな木の机がある。これは姉のお下がりらしくて使い古してある。ベッドの足のほうの隅には大きなおもちゃ箱がある。蓋がなくておもちゃが乱雑に入っていた。一郎がつかつかと向かったのはベッドである。そこで一郎がしゃがみこみ手を伸ばしてベッドの下から黒い金属製の古い手提げ金庫を引き寄せるようにして取り出した。
金庫の鍵はかかっていなくて直ぐに開いた。一郎が小さな手でつかみ出したのは雑魚の入ったビニール袋であった。これは煮干で猫の好物である。一郎がそれを持って部屋を出ると猫は前足を立てて座っていた。
「俺とお前の秘密だぞ。母さんに知られると没収されるからなあ」
一郎は煮干を手のひらに置いて猫の前に差し出す。猫は心得た素振りで落ち着いて舌で掬いあげている。この様は随分と以前から馴れ合ったものと見えた。この家に住んでいるのは、一郎と猫のほかには、一郎の父と母と姉である。母さんは専業主婦でパートに出るとき以外はいつも家に居る。父さんはサラリーマンで家に居る時間が少ない。姉さんは受験校に通っている。
「母さんはお前をかわいがるけれど干渉も多いんだよね。躾しつけってうるさいね」
一郎は母さんに隠し事しているのが後めたいのだが、母さんに反抗する楽しみもあった。母さんはいつもイライラしている。父さんが家のことを考えないでゴルフだ、スキーだ、ハング・グライダーだと、遊んでばかりいるのが母さんの不満のもとだった。一郎は母さんも一緒に遊べば良いとおもっているのだが、母さんは乗り気でなかったし、父さんも誘わない。姉さんは大学受験のために勉強している。昼間、この家に居るのは一郎と猫だけである。
母さんは一週間のうち三日はパートに出ていて夕方しか帰ってこない。母さんがパートに出た日は近所に居るお祖母ちゃんが留守番に来る。お祖母ちゃんはお父さんの母さんだ。お祖母ちゃんは家に来ると掃除や洗濯をする。一郎はお祖母ちゃんが好きだ。
二
一郎の父の名は淳、母の名は八重、姉は美樹という。猫はキャッシーと呼ばれている。この一家の住んでいる家は、お祖母ちゃんの香苗の持ち家である。お祖母ちゃんは夫の真島俊介と近くのマンションに住んでいる。淳が結婚したときに、年寄はマンションのほうが手間がかからないので良いといって移ったのである。
お祖母ちゃんの香奈は一郎が大好きである。DVDをねだられると直ぐに買ってやるので母さんの八重は不機嫌である。
「だめですよ。一郎の躾が出来なくなるから物を買ってやるのはやめてください」
八重は甘やかすとろくな子にならないとお祖母ちゃんを叱る。一郎がDVDをねだるのは実は美樹の指図だった。
お姉ちゃんの美樹は受験勉強をする身だから祖母にねだるのが憚られる。そんなことをしたら母の八重からこっぴどく怒られることを美樹は十分に承知しているので一郎を使うのだ。美樹は八つ年下の一郎をかわいがっている。
一郎は母に似た顔立ちの細面で、稚児のやわらかい肌を持ち続けていて抱きしめたいほどに愛らしい。それなのにやることは腕白である。猫のキャッシーと一緒になって暴れまわるので、八重はくたくたに疲れる。
この家の主人である淳は、そんなことにはお構いなしに、会社勤めと遊びに夢中である。美樹が生まれてから八年も子に恵まれなかったのは、淳が八重をかまわなかったからである。平日は会社が忙しいといって毎日のように帰宅は午前様である。美樹が赤ん坊のときからそれが続いている。
三
ある日、一郎はお祖母ちゃんの香奈と買い物に出た。香奈は年齢のわりに、健脚であちこちの店をつれまわされても腰が痛いとか足が動かないとか言わないで、一郎の買い物探しに付き合っている。最初に訪ねたのは音響製品を売ってる店でテレビ・ゲーム機が狙いだった。
「これはソフトがいいのだ。俺の欲しいものだから買うよ」
「お祖母ちゃんにはわからんが、好きなら買うがいい」
「お祖母ちゃんはクラシックのDVDがいいのだろう。姉ちゃんの行く店に揃ってるんだ」
佐武 寛
一
一郎が猫の足を踏んだ。ベランダで寝ていた猫はすばやく立ち上がって部屋に逃げ込むと一郎の顔を睨む。その間、声を発しなかった。一郎とこの猫は仲間である。猫は茶と白と黒の三色でからだを包んでいる。かなり大きなからだが膨らんでいた。明らかにおこっているのだ。一郎はベランダからにらみ返している。ベランダには夏の昼下がりの太陽が照り返していて暑い。
「てめえはどうしてこんなところで寝ていたんだ。俺はそれがわからんのだ。俺には暑すぎて居るどころじゃない。そんな毛皮を被っていてよく平気で居られたものだ。俺はトンボが飛んできたから捕まえてやろうと思ってベランダにとびあがったのだ。お前が居るとはおもわなかったよ。悪いのはここに居たお前だ」
一郎は猫に説教している。猫は膨らんだからだのままでじっとしている。一郎はトンボを逃がした口惜しさで手にしていた網竿を猫に投げつけた。猫はとっさに飛びのいて部屋の奥に下がったが、また座りなおして一郎に向き合った。網竿の落ちる音が畳から跳ね返える。同時に猫は居場所を移した。
「このやろう。網をかぶせてやろうと思ったに逃げやがった。それならさっさと姿を消せば良いのに何故まだそこにすわってるのだ。俺をなめてるのかよう。捕まえてやるからじっとしておれよ」
一郎はベランダからさっと降りてくる。猫は逃げないで待っているように一郎を見詰めている。先ほどまでの腹のふくらみは消えて目も優しくなっていた。だが一郎が近くに寄ってくると、突然、飛び掛ったので、一郎は不意を突かれた格好でよろける。そのときに、古畳がガサガサなった。
「このやろう、飛びかかってくるな。俺が行くまで待ってればいいじゃないか。まだ怒ってるのか」
一郎に抱かれた猫は歯も立てなかったし爪で掻きもしなかった。奇襲して一郎を驚かしたのだ。猫にも作戦がある。優しそうな顔をして待っているように見せかけて急にとびついたのだった。抱かれながら優しく鳴いた。一郎はその頭を撫でてやる。
「エサをやるからまっとれよ。俺の部屋に置いてあるんだ」
一郎はバサッと猫を下におろす。猫は一郎の後を追って着いてゆく。
「待てと言っただろう。俺の部屋は秘密の部屋なんだ。誰も入れないことにしている。お前だっておなじだぞ。絶対、入ってはいけない。外で待ってるんだ」
一郎は小さなからだをせかせか動かして部屋に向かう。猫は一郎の言ったことがわかったのか、途中で座った。一郎は古びた木のドアを開けて中に入るとぴしゃっと閉める。この部屋はフローリングの床で壁際にベッドが置いてある。窓が枕の側にある。これは昔式の洋風窓で白いペンキを塗った木の格子がガラスに嵌めてある。部屋の中には背の低い木の本棚が一つベッドとは反対の壁際においてあって、その横に小さな木の机がある。これは姉のお下がりらしくて使い古してある。ベッドの足のほうの隅には大きなおもちゃ箱がある。蓋がなくておもちゃが乱雑に入っていた。一郎がつかつかと向かったのはベッドである。そこで一郎がしゃがみこみ手を伸ばしてベッドの下から黒い金属製の古い手提げ金庫を引き寄せるようにして取り出した。
金庫の鍵はかかっていなくて直ぐに開いた。一郎が小さな手でつかみ出したのは雑魚の入ったビニール袋であった。これは煮干で猫の好物である。一郎がそれを持って部屋を出ると猫は前足を立てて座っていた。
「俺とお前の秘密だぞ。母さんに知られると没収されるからなあ」
一郎は煮干を手のひらに置いて猫の前に差し出す。猫は心得た素振りで落ち着いて舌で掬いあげている。この様は随分と以前から馴れ合ったものと見えた。この家に住んでいるのは、一郎と猫のほかには、一郎の父と母と姉である。母さんは専業主婦でパートに出るとき以外はいつも家に居る。父さんはサラリーマンで家に居る時間が少ない。姉さんは受験校に通っている。
「母さんはお前をかわいがるけれど干渉も多いんだよね。躾しつけってうるさいね」
一郎は母さんに隠し事しているのが後めたいのだが、母さんに反抗する楽しみもあった。母さんはいつもイライラしている。父さんが家のことを考えないでゴルフだ、スキーだ、ハング・グライダーだと、遊んでばかりいるのが母さんの不満のもとだった。一郎は母さんも一緒に遊べば良いとおもっているのだが、母さんは乗り気でなかったし、父さんも誘わない。姉さんは大学受験のために勉強している。昼間、この家に居るのは一郎と猫だけである。
母さんは一週間のうち三日はパートに出ていて夕方しか帰ってこない。母さんがパートに出た日は近所に居るお祖母ちゃんが留守番に来る。お祖母ちゃんはお父さんの母さんだ。お祖母ちゃんは家に来ると掃除や洗濯をする。一郎はお祖母ちゃんが好きだ。
二
一郎の父の名は淳、母の名は八重、姉は美樹という。猫はキャッシーと呼ばれている。この一家の住んでいる家は、お祖母ちゃんの香苗の持ち家である。お祖母ちゃんは夫の真島俊介と近くのマンションに住んでいる。淳が結婚したときに、年寄はマンションのほうが手間がかからないので良いといって移ったのである。
お祖母ちゃんの香奈は一郎が大好きである。DVDをねだられると直ぐに買ってやるので母さんの八重は不機嫌である。
「だめですよ。一郎の躾が出来なくなるから物を買ってやるのはやめてください」
八重は甘やかすとろくな子にならないとお祖母ちゃんを叱る。一郎がDVDをねだるのは実は美樹の指図だった。
お姉ちゃんの美樹は受験勉強をする身だから祖母にねだるのが憚られる。そんなことをしたら母の八重からこっぴどく怒られることを美樹は十分に承知しているので一郎を使うのだ。美樹は八つ年下の一郎をかわいがっている。
一郎は母に似た顔立ちの細面で、稚児のやわらかい肌を持ち続けていて抱きしめたいほどに愛らしい。それなのにやることは腕白である。猫のキャッシーと一緒になって暴れまわるので、八重はくたくたに疲れる。
この家の主人である淳は、そんなことにはお構いなしに、会社勤めと遊びに夢中である。美樹が生まれてから八年も子に恵まれなかったのは、淳が八重をかまわなかったからである。平日は会社が忙しいといって毎日のように帰宅は午前様である。美樹が赤ん坊のときからそれが続いている。
三
ある日、一郎はお祖母ちゃんの香奈と買い物に出た。香奈は年齢のわりに、健脚であちこちの店をつれまわされても腰が痛いとか足が動かないとか言わないで、一郎の買い物探しに付き合っている。最初に訪ねたのは音響製品を売ってる店でテレビ・ゲーム機が狙いだった。
「これはソフトがいいのだ。俺の欲しいものだから買うよ」
「お祖母ちゃんにはわからんが、好きなら買うがいい」
「お祖母ちゃんはクラシックのDVDがいいのだろう。姉ちゃんの行く店に揃ってるんだ」