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逆光

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 最近、鈴木が真剣に思うのは、世のため人のためになりたいということである。それはささやかな親切からでいい。自分の金儲けのためにあくせくする年齢をはるかに超えてしまっている。自分のできることで世の中に恩返ししたい。そうでなければ、無駄に長生きしていることになる。そう思うのだが、世間との隔絶も大きくなっている。第一、物事の考え方が合わない。第二に、八十歳を超えた老人を世間はお呼びではない。第三に、体力が衰えている。それでも、やっぱり、何か、世の中に役立つことをやりたいと思いながら、つくづく嘆くのは、最近の世相である。
 この頃のこの国の現状は、鈴木の理解を超えることが多い。敗戦を境に別の国になった。その思いは年とともに広がってゆく。自分と世間との年齢差が自然に拡大するということだけではないと思う。
「敗戦から六十年以上も経った現在、もの皆変わり果てて昔の姿はない。社会という装置も、個人という人間も、すっかり別物になった。言葉までが変わっている。アメリカ生まれの日本語になった。日本人の動作、言葉、思考がアメリカ流に変わった。それを日本人は自覚しないで流れに任せている。これでは日本人のアイデンティティは文化的流浪民になるだろう」
 鈴木は、増本の反応を確かめるように顔を見詰めながら、話を続けている。
「だが、誰もそれを責めなくなった。自然の流れのようにこの国に浸透している。日本人は、それをおのずから受容した。嬉々としてアメリカナイズを謳歌しだした。誰がそれを非難できるのか、それどころじゃない。この道は後に戻らない。平成の日本人のアイデンティティにすらなろうとしているんだよ。新しい日本人が生まれている。自分たちの受けた神国日本の教育ではなくて、それを完全に否定した民主主義教育によって育っている。その本家がアメリカというわけだ」
 鈴木は、複雑な気持ちで、現実を受け入れようとして、自分を納得させることが世間と歩調を合わせることだと観念している。だが、頭ではそうわりきっても、心は抵抗している。まして最近の社会的事犯は戦後教育の失敗を思わせるものが多い。
「日本人の陥っている不幸な病は、人間喪失だろう。獣もしないような子殺し、親殺しが頻発している。それもこれも、倫理の根底が解らなくなったからだろう。戦後の生き残りの過程で、経済以外の価値観を放棄してしまった。しかも経済倫理を無視した貪欲が横行し、数々の犯罪を生んでいる。経済立国が行き着くところまで行き着いたということじゃないか」
 鈴木は苦々しい思いを吐き出すようであった。
「その経済も、失われた十年があったじゃないか。一九九〇年代にこの国は経済大国から実質的に転落した。少しは回復したと思ったら、一昨年のリーマンショクでアメリカ以上に損害が発生したね。今は、中国の経済発展に寄りすがっている。俺たちの世代が築いた経済大国は霧散したのよ」
 増本が残念そうに過去を振り返った。

             二
 前期高齢者の佐伯が、鈴木の勧めた職場に再就職する。趣味に没頭して余生を楽しもうと思っていたのだが、それ自体に飽くこともあって、日常生活に充実感が感じられないと思っていた矢先に、鈴木先輩の勧めがあったので、乗ったのである。
「世のため人のために働かないか」
 と、鈴木先輩に言われたことが、耳を離れない。凄く新鮮に聞こえたのである。
「現役復帰ですか」
 と、会社の後輩に言われて、佐伯は照れ笑いした。再就職という言葉が最も相応しいのだが、これまで経験したことのない仕事なので、戸惑っている。就職というより未知へのチャレンジである。ある日のこと佐伯は、
「人間の尊厳と戦っているような毎日です。療養・介護がこれほどに深刻とは思っていなかった。細かいことはいちいちは話せませんが、心から苦痛の叫びがほとばしり出ていますね。それを払いのけられないもどかしさとか、救ってあげられない悩みに襲われるのです。三年も五年も寝たきりの病床では、静かな呻きが漂っているか、死のような冷たい静けさが襲ってきます」
 と、鈴木先輩に話した。それを聞いた鈴木は、
「私の母は、寝たきり十年で、介護していた父が先に亡くなったが、母はそのことも知らずに生きていた。母の意識はすでになくなっていたようだが、生き続けていたのだ。尊厳死や安楽死が認められない限りこのような高齢者が増え続けるだろう。社会にとっても家族にとっても重い負担になっている。超高齢な母親を介護していた高齢の娘が先祖の墓場の前に、車いすに乗った母を置いて、自殺したというニュースを君も知っているだろう。国の社会保障費を毎年二千億円削減するという小泉政権の政策以後、高齢者医療や療養・介護は、実質的に崩壊し始めている。日常生活が恙無ければ、それで庶民は幸福なのだ。それさえ奪おうとしているのが今の政治だよ。尤も、昔は戦争で命まで奪ったがね」
 鈴木老人は最近の世相に不安と不満を持っている。それを非難したいのだが非難しても改善につながらないことを経験で知っている。戦時中も同じような社会批判があったことも体験している。そして、徒に無常を託つ年齢になっていることが残念なのである。その思いが、後輩の佐伯に注がれているのであろう。自分の思いを佐伯が代わって実現してくれることをねがっているようであった。鈴木と佐伯の会話が続く。
「不健康な世の中になりましたね。高齢化がますます深化し、少子化が定着すれば、国家は破綻ですよ。高齢者の介護をしながらなんだかすっきりしない気分ですよ。高齢化社会を守っていいのかってね。あ、失言しました」
「失言じゃないよ。健康な高齢者を増やす政策が必要なんだ。無用なストレスを生む政治をしないことだ」
「会社が成果主義を採用してから、社内の空気は乾燥しましたね」
「潤いのない職場になったのだろう。俺たちの頃の職場は、助け合って無から有を生むという気風があったね」
「企業風土が違っていたのですね」
「日本的経営を象徴した年功序列、終身雇用が高度経済成長をもたらしたのよ」
「あのままであれば、非正規雇用のような矛盾は生まれていませんね」
「米欧主導のグローバリズムに呑み込まれたのだね。それを端的に表したのが会社法と金融商品取引法の制定だった。簡単に言えばM&Aの企業文化を社会の基調にしたのよ」
「従業員の能力は買うが、忠誠心は求めなくなったのですね」
「非人間的経営だよ。上場企業の経営者は自社の株価を高めに維持するための株価経営に走っているね。拝金思想がすべての経営を支配している。金を生む力がすべてなんだ」
「さもしくなりましたね。そういえば、年金生活に入った途端に、僕は妻からも子供からも軽視されるようになりましたね」
 と、佐伯は突然、自分の家庭における重みが感じられなくなっているのに気付いた。
「それは、君のひがみかもしれないが、否定も出来ないね。だから、働けと言っているんだ。生涯現役で無病息災が理想だよ」
「六十歳で定年はきついですね。まだまだカネは必要だし、体力も気力もありますからね」
作品名:逆光 作家名:佐武寛