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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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~そのまえ~(湊人過去編)

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 どれもどこかで聞いたことのある音楽の破片だけれど、彼の指にかかるとそれはやはり彼だけが生み出せる音楽だった。

「だから君もためらわず、どんどん取り入れるんや。吸収して消化して発酵させて、熟成させた先にきっと君だけの音楽がある。それには途方もない時間がかかる。だからこんなとこで妬み僻みに頭悩ませてんと、ひたすら弾くんや。隣の部屋におる連中も、毎日君のピアノを待ってる」

 隣の、という言葉に、湊人は思わず壁を見つめた。第二音楽室は四階の端にあり、唯一接しているのは社会科準備室だけだ。

「隣って……世界史とか日本史の先生がいる部屋ですか」
「そうや。みんな君のピアノを聞きながらのコーヒータイムを心待ちにしてる。世界史のじいさんなんか、はよう君とソニー・ロリンズの話がしたいてうるさいんや。次の授業は顔出したるんやで」

 そう言ってまた下手くそな『オレオ』のスキャットが始まる。授業では十七世紀のクラシック音楽家がどうだとか難しい顔をして語っているのに、「ヴィーバップビー」を繰り返す彼の表情はいたずらを仕掛ける子供のように楽しげだった。

「オレのピアノを……待ってる?」

 湊人はかみしめるようにそう言った。目の前にあるピアノと同じように、自分は誰にも必要とされていない存在だと思っていたのに、あんな他愛のない演奏を待っていてくれる人たちがいる。本来なら学業に専念すべきこの時期に何も言わず、ただ黙って聞いてくれている――

「勉強しかようせんこの高校初のプロピアニストやないかて、みんな期待してるんや。そんな腐った顔してんと、しっかりがんばりや」

 音楽教師はそう言いながら湊人の背中を叩いた。胸が熱くなるのを感じながら、湊人は歯を食いしばった。目の前にある白と黒の鍵盤がぼやけて見える。

「それに君のピアノを聞かせたい子が、おるんやろ?」

 そう言ってにやけながら肘でつつかれて、湊人は自分の顔が真っ赤になるのを感じた。

「ちっ……ちがう! いっつも勝手に聞きに来てるだけで……」
「今日だけ勘弁したるから、放課後までこっそり弾いとき。音楽の授業ってことにしとくわ。その代り、私がここに来たのは内緒やで」

 そう言ってウインクをすると、「あ、そうそう。あそこにある教材は好きに使うてくれてええからね」と言い残して彼は教室を出ていった。手にはパイプを持ったままだ。通常授業の校舎と離れているとはいえ、特別教室の校舎にはやはり変わり者の教師が集まっているらしい。
 彼の肉付きのいい背中を見送ると、肩から力が抜けるのを感じた。

 途端に部屋が静まり返る。外からホイッスルの集合をかける音が聞こえる。時計を見るとまだ五限目の最中だった。ピアノは沈黙したままだ。
 
 誘われるように音楽教師が指さした本棚に歩み寄る。ざっと見たところ、今は使っていない古い教科書や楽器の教則本が収められているらしい。
 深緑色の背表紙を抜き出してみると、それは昭和60年に刷られた音楽の教科書だった。保管用だったのか、色あせているものの開いた跡が残っていない。
 
 それを手にしてピアノの椅子に座る。古い教科書をそっと開くと、一曲目に日本古謡『さくらさくら』が記載されていた。
 ピアノに立てかけるために折り目をつけていると、譜面用ファイルに収めた桜の花びらが目に留まった。初めて彼女の歌声を聞いたとき、廊下に落ちていたものだ。あれからずいぶん時間が経っているので変色して譜面に張りついてしまったが、なんとなく捨てられずにいる。

 日本古謡なので、見慣れたコードは存在しない。日本特有の五七調も深く理解はしていない。音符を一つずつ拾い上げるという不慣れな作業をしながら、湊人は『さくらさくら』を弾く。譜面通りに弾けることを確認しながら、少しずつ音を加えていく。増やしては減らして、減らしては増やして、しっくりくる音色を探す。

 口髭の教師が言うように、吸収するところから音楽が始まるのなら、どんな音色でも取り入れたいと思った。今すぐでなくても、いつの日か熟成されてそれが自分だけの音楽になるなら、その日が来るまでピアノと向かい合っていたいと強く感じた。

 ふと気づくと、『さくらさくら』の歌が耳に届いてきた。音楽室には自分しかいないのに、確かに「弥生の空は……」というかすかな歌声が聞こえる。

 その時、廊下側のカーテンが舞い上がった。そこにはこげ茶色のポニーテールの姿があった。
 心音が高鳴るのを感じながら、湊人はピアノを弾いた。視線がかち合うといつも雲のように姿を消してしまうので、なるべく顔を上げないように、弾くことに集中した。

 ――さくらさくら 弥生の空は 見渡す限り
   かすみか雲か 匂いぞ出づる
   いざやいざや 見に行かん

 たったそれだけのフレーズを何度も繰り返した。桜の季節はもう終わろうとしているけれど、彼女の歌声は季節をこえてどこまでも続いていきそうだった。

 ずっとこの声を待っていた――そう思いながら湊人は顔を上げた。
 薄茶色の瞳と視線があった。けれど彼女は姿を消さなかった。

「オレに何か用?」
 
 湊人が静かにそう言うと、彼女は大きく目を見開いた。

「あの……えっと、篠原くんを探してるねんけど、どこ行ったか知らん? あー私は剣道部で三年の倉泉って……」
「知ってる」

 彼女の言葉を遮るように、湊人は言った。彼女が剣道部だということの他に、名前も察しがついていた。というのも、健太が毎日のように「倉泉悠里」という名前を口にしていたからだ。剣道部でクォーターの三年女子、という特徴が一致するのにそう時間はかからなかった。

「健太ならいないけど」
「あっ……そうなん? ごめんね、練習のじゃましちゃって」

 彼女は困ったようにメガネのふちをかきながら、そう言った。いつものように防具一式と竹刀袋を担いでいる。袴姿になれば、どれほど『さくらさくら』の音色が似合うかと湊人は想像した。

「あのさ」

 湊人がそう言いかけたとき、「おーいっ、倉泉ーぃ」と廊下にこだまする声が聞こえた。
 額に汗をかきながら姿を見せたのは、袴姿の健太だった。素足に流行りのスニーカーと、アンバランスな格好をしている。

「おまえこんなとこで何してるんや。二年の女子がおまえがおらんゆうて探してたで」
「何ゆうてんの。ウチは篠原くん探してたのに」
「ええから早よ行こうや。おまえがおらんかったら誰が号令出すんや」

 そう言って健太は無遠慮に彼女の手をひっつかんだ。何気ないその行為に、妙な苛立ちを感じる。

「湊人もけっきょくサボったんか。じじいが寂しがってたで」
「明日は授業出るよ」
「ほなそう言うたりや。喜ぶんちゃう」

 健太が首をふった向こうから、世界史の教師が歩いてくる。湊人を見るなり、顔じゅうのしわを寄せて微笑んだ。決して責めることのないその緩やかな笑みに罪悪感が増して、湊人は顔を上げていられなかった。

「ほな行こか。倉泉、急いでや」

 健太は彼女の防具一式を奪い取ると、けたたましく音を鳴らしながら外階段を下りて行った。