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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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~そのまえ~(湊人過去編)

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 その夜の演奏は散々だった。
 あんなに時間をかけて練習した『オレオ』だったのに、頭の中でずっと剣道部の彼女に披露するはずだった曲と竹刀の音が鳴り響いて集中できなかった。ピアノの鍵盤ですったもんだを繰り返した挙句、古参のピアニストに椅子を奪われてしまう始末で、目も当てられない演奏となってしまった。
 去り際に言われた言葉が「君にはまだ早いよ」だった。
 いくら歯噛みしても悔しさは去らず、頭の中では自分の最悪な演奏が鳴り響き続けて、明け方まで眠ることができなかった。

 けれど朝になって冷静な頭で考えてみると、そんなことは結局言い訳にしかすぎず、自分にはまだハードバップを弾きこなす腕が足りなかったのだと思い当たる。

 湊人のジャズピアノの基礎は、すべて父が残した古い音源にある。一音も取りこぼすことなくコピーしたおかげで人前で披露できる程度にはなったが、所詮は物まねにすぎない。聞く人が聞けばわかるプロピアニストの父、望月浩彰の複製演奏を『ラウンド・ミッドナイト』のオーナーは「一度は封印しなさい」と言った。
 そんなのたやすいことだと軽く考えていたけれど、目論見が甘かったことは二年たった今痛烈に感じている。

 どんなに気持ちよくピアノを弾いていても、父が作ったフレーズではないかと不安がよぎってしまう。何を弾いても自分のオリジナルだという確信が持てず、堂々巡りを繰り返す。
 迷いはすぐ演奏に現れてしまい、他のプレイヤーから厳しい批判を浴びる。「高校生にはまだ敷居が高いよ」となじられても、悔しいのは高校生だと見下されたことではなく、自分のプレイの方が圧倒的に劣っていることだ。

 悔しくて悔しくて、最後にはピアノに当たってしまう。
 この日は寝不足の頭を抱えて昼休みから音楽室にこもっていたけれど、まともな演奏はできなかった。何をしていても、あの椅子を奪われた瞬間がよみがえる。

「あーまたこんなとこにおった。昼飯食べたんか?」

 そう言って扉を開いたのは健太だった。手には弁当袋と購買部の袋を下げている。小柄なのに底なしの胃袋を持つ彼は、弁当だけでは足りないらしく、いつも購買部でパンやらおにぎりを買いこんでいる。
 湊人は顔をそらして再び鍵盤に視線を落とした。

「腹減ってない」
「またそんなこと言うて。だからおまえいっつも顔色悪いんや。俺と食堂行こうや」
「行かない」

 そういって健太の腕を振り払うと、健太は無遠慮に顔を近づけてきた。

「もしかしておまえ、めちゃめちゃ機嫌悪い?」
「ほっとけよ」

 虫の居所が悪い自分に平然と声をかけてくるのはおまえくらいだ、と考えていると、健太は購買部の袋から何やら取り出して言った。

「おまえ怒ってるときだけは、ほんまわかりやすいよな。ほら、これ飲んで機嫌なおしや」

 健太が差し出したのはコーラのペットボトルだった。このタイミングでピンポイントに自分の好物を差し出してくるから、よけいに腹が立つ。
 湊人はそれを素早く奪い取ると、健太を廊下に押し出した。

「さっさと飯食って来いよ。昼休み終わるぞ」
「湊人はどないすんねん。五限の世界史のじじい、おまえがいつになったら授業にくるんかって嘆いてたで」
「今日は行かない」
「今日も、やろ」
「わかってんならさっさと行けよ」

 湊人がぴしゃりと扉を閉めると、健太はあっさりと外階段を下りて行った。諦めが早いのか引き際を心得ているのか、おかげで健太とだけは長く付き合えている。

 体の中にたまった灰色のため息をついて、鍵盤を見つめる。いつもなら心地よく感じられる風の音にも感情がいら立って、全身のざわつきを抑えることができない。

「おーい、五限のチャイム鳴ったで」

 そう言って顔を見せたのは五十代半ばの音楽教師だった。この部屋の鍵を管理している彼は、湊人に鍵を預けたままにしていると授業に出ないことを経験で知っているので、いつもこうしてのぞきに来る。

「知ってます」

 ピアノの椅子に座ったまま、しれっと湊人が言うと、彼は口髭をいじりながら言った。

「なんや確信犯かいな。出席日数は足りとるんか?」
「まだまだ余裕です」

 そう答えながら『オレオ』を弾き始める。冒頭のハードバップ特有のリズムが、どうにも指になじまない。

「顔はいっこも余裕とちゃうな。昨日のセッション、あかんかったんか?」

 にこにこと笑う音楽教師にさらりと言い当てられてしまった湊人は、返す言葉もなかった。

 五限は体育の授業があるのか、グラウンドではホイッスルの音が鳴っている。そこへリズムを乗せるように、音楽教師は立ったまま『オレオ』を弾き始めた。湊人がずっと練習していたファーストテンポのものではなく、ミドルテンポで右手と左手のユニゾンを弾いている。口元からは「ヴィーバップビー」と何とも適当なスキャットが漏れ出している。
 
 ジャズに精通している彼とは、時々『ラウンド・ミッドナイト』の話をする。とても進学校の教師とは思えない熱心さでジャズを語るので、湊人もついあれこれと自分の話をしてしまう。このところずっと『オレオ』に苦戦していたことにも、どうやら気づいていたらしい。

「……昨日は最悪でした。一緒にやったプレイヤーにも散々の言われようで」

 うつむいたままつぶやくようにそう言うと、彼はピアノを弾く手を止めた。

「狭い世界やから、望月浩彰の息子のくせに、ゆうて僻むやつも少なくないやろね」

 彼の口から飛び出した名前に、湊人は目を見開いた。高校で父の名を出したことは一度もない。

「オレが望月浩彰の息子だって……知ってたんですか」
「まぁそんだけ似とったらね。ジャズピアノが好きな人間やったら、大抵は気づくんちゃう?」
「……だからオレに、この部屋を貸してくれてたんですか」

 うなだれたまま湊人がそう返すと、彼は湊人の肩を持ってゆっくりと首をふった。

「それは順序が逆や。君が弾くバド・パウエルはなーんか懐かしい感じがして、手持ちの音源をあさったんや。そしたらなんとびっくり、望月浩彰が君とおんなじ顔してました。ははーんなるほど、おんなじ血で弾いていたんやと、思い当たったわけやね」

 音楽教師がのんびりといった言葉に、湊人は一種の絶望を感じた。おまえの演奏はしょせん望月浩彰の物まねなのだと、再び目の前で叩きつけられた気がした。

「オレやっぱり……父さんのコピーにしかすぎないのかな」
「なに言うてんのや。音楽なんて、真似てなんぼのもんやろ」

 意外な返答に、湊人は顔を上げた。彼はいつのまにかパイプを取り出して煙をくゆらせている。

「古今東西、音楽家たちは先代の音楽を受け継いで、今の形に昇華してきたんや。まるっきりのオリジナルなんて、どこにもあらへん。俺のは絶対オリジナルやていうやつの音楽にも、必ず先人の知恵が眠ってる」

 そう言って彼はピアノを弾き始める。音楽教師らしくクラシックのワルツを弾いたかと思えば、突然ブルースに切り替わる。ジャズの4ビートからロックの8ビートになり、そこからさらにラテンのリズムを奏で始める。