魔獣つかい【サンプル】
中天には真っ白な満月が小さく輝いている。積もった雪に月明かりが反射して眩しい。
白い息を吐きながら連枝は歩いていた。
下着も靴下も二枚重ね、懐には布に包んだ焼き石を抱えているのに、歯が鳴るほどに寒い。かじかんだ右手に、赤い実をつけた小さな木の枝をしっかり握り、耳まで帽子を引き下ろしても、外気に触れる肌が痛んだ。
(でも、晴れててよかった。風もないし)
真夜中である。家々の窓は暗く、通りを動く影はない。家畜小屋の牛馬の寝息も聞こえそうなほどに張り詰めた寒気の中、足音を抑えて連枝は森を目指した。
森の入口には柵が立てられ、魔獣の護符が貼り付けられている。明日の成年式が終わるまで、立ち入りは禁じられているのだ。
(でも、行かなきゃ)
小さく身震いをして、連枝は柵をまたぎ越えた。
木々の間を縫い、月の光が斜めに差し込む道に立つと、自分の行く手がほのかに光っているように思われた。
(満月の夜に森へ行くべし)
何度も頭の中で繰り返した言葉をもう一度反復する。
(森の広間で王にまみえよ。捧げものは赤い実の枝)
添えられていた絵図を思い出す。太く描きこまれた線は旧街道だとすぐにわかった。「広間」はその街道の途中にあるはずだ。
(王って、どんな人だろう)
普段は歩きにくいだろう荒れ道も、上にふわりと積もった雪のおかげでさほど困難を感じない。
(……ほんとに王なんているのかな)
それも、何度も繰り返し考えてきた疑問だった。が、連枝は迷いを振り払うように大きくかぶりを振った。
(いる。あの人が教えてくれたんだ、きっと意味のあることなんだ)
それに、と連枝は顔を上げて道を辿った。
(気のせいじゃない、道が光ってる。……あの帰り道と同じだ。あの人が、きっと道を教えてくれているんだ)
黒いマントの魔法つかい。本人は森番だと言ったが、ただの人であるはずがないと連枝は信じている。
魔獣の森での出来事を誰かに話したいという気持ちを抑えるのは、さほどの苦労ではなかった。あまりに現実離れしていて、連枝自身も自分が夢を見ていたのではないかと疑うほどだったからだ。
それでも何度か、陽林にだけは話してみようかと考えた。陽林も、自分と同じに魔獣を買ってはもらえないのだから、一緒に森に来れば陽林の魔獣も見つかるのではないかと思った。
(口に出してはいけない。書きとめてもいけない。自分の心一つに納めて、書かれている通りに行いなさい)
魔法つかいの言葉を思い出し、どうにか今夜まで秘密を守り続けてこられた。
俯きそうになるのをこらえて、光る道を見つめて歩く。
(僕の魔獣は、どんな姿だろう)
それを考えるたび、ふわっと胸の膨らむような、体が少し地から浮くような感覚がこみあげてきた。どうせ叶わない夢なのだから、最初から見なければいいと懸命に目をそらし続けてきた憧れが、一気に膨れあがってあふれ出してしまいそうだ。
(小さいといいな。いつも一緒にいられて、寒い夜には懐に入れてあげられるようなの。鳥もいい。肩に止まって囀ってくれるかな……)
寒さで真っ赤になった顔に、自然に笑みが浮かんでいた。歌でも歌いたいような上機嫌でゆっくり歩み続けた連枝は、ふと足を止めた。
木々の間隔が広がり、ぽかりとひらけた場所に出ていた。降り積もったまま、足跡一つつけられていない雪が月明かりを受けて、白銀のように輝いていた。
見上げた空には白銅貨のような月がくっきりと浮かんでいる。さし交わす枝が途切れて、明るく晴れた満月の空が頭上に広がっていた。
ここが、“広間”だろうか。
まばゆい雪の輝きに惹かれるように、連枝はその真ん中へ進み出た。
(王が来る)
しっかり握りしめてきた小枝を、よく見えるように胸に掲げた。かりかりに凍りついた赤い実は、月明かりに照らされて宝玉のように輝いた。
荒い呼吸を整えながら、生き物の気配に意識を凝らして待つ。
どれほど待っただろう、息がおさまり、うっすらと滲んでいた汗が冷たく冷えはじめても、森はしんと静まったままだった。
(場所を間違えただろうか)
足元から這い上がってくる冷気と不安に、ぞくぞくと体が震えはじめた。
(時間が違ったのかも。もっと早く来ないといけなかったんだろうか)
しかし、階下では母と姉が遅くまで起きていた。明日の成年式を控えて、手作りの装束に最後の仕上げをしてくれていたのだ。二人が寝静まる夜半過ぎまで、寝床を抜け出すことができなかった。
(間に合わなかったんだろうか)
体の芯まで寒気がしみ込んでくるのにつれて、焦りも増してくる。ぶるぶる震える体を両手で抱きかかえながら、連枝はもう一度夜空を見上げた。
木々の縁取りの真ん中に輝いていた白い月は、位置をずらして葉群に隠れようとしている。
(遅すぎたんだ)
じわ、と目の奥が熱くなった。見上げた月の輪郭がにじみ、震えをこらえようと食いしばっていた歯の間から、情けない泣き声が漏れそうになった。
(……いや、場所を間違えたのかもしれない。もう少し歩き回って……)
ぐいと涙を擦ったとき、背後でかさ、と木の葉が擦れ合うような音がした。
連枝はびくりと竦んで、こわごわ振り返った。
木立の間に、白い獣がいた。
ぴんと立ち上がった三角の耳も、雪を踏みしめる大きな足先も、大きく膨らんだ尾の先まで、一点の染みもない雪白の毛皮に包まれている。鼻先は黒い。目は雪の陰と同じ、凍りついたような薄い青。太い息を吐く口もとからだらりと覗いた舌は薄桃色だった。
巨大な白狼が、まっすぐに連枝を見据えていた。
(……狼!)
いつの間にこんな間近に忍び寄っていたのだろう。ぎゅっと心臓を握りこまれるような胸苦しさに、連枝は喘いだ。逃げなければ、と思うのに体は竦んで一歩も動けなかった。
狼は悠々と雪を踏んで近づいてくる。足音はほとんど聞こえない。木間を抜け、月明かりを浴びると白い毛皮は銀のように輝いた。
「う、わ」
雪に足を取られ、そのまま均衡を失って尻餅をついた。逃げられない。連枝は雪の上にうずくまり、頭を抱えて小さくなった。声にならない悲鳴は、頭の中でわんわん反響していた。
と、手の甲に温かく湿ったものが触れた。
「ひ、」
ますます縮こまった耳元に、太くて温かい息がかかった。それから、柔らかく濡れたものが耳朶や指に何度も触れた。
おそるおそる頭を上げると、大きな舌でべろりと頬を舐め上げられた。
「わ、わ」
胸元に鼻面を擦りつけてくる。太い首まわりのごわごわした毛が、鼻先をくすぐる。獣臭さは感じなかった。すうっと胸が透くような深い森の香に引き寄せられて、連枝は白い毛皮に顔を埋めた。
厚い毛皮の下の体温が伝わってくる。思い切ってしがみつくと、狼はそのまま連枝を引き起こすように頭を上げた。
膝をついた連枝と、頭の高さがほとんど同じ。氷色の目が、まっすぐに連枝を見つめていた。
(これが、王?)
倒れこんでもしっかり握り締めていた小枝をそっと差し出す。赤い実はほとんど雪の上に落ちてしまっていたが、白狼はまるで微笑むように目を細め、連枝の手を舐めた。
(……王なんだ!)
作品名:魔獣つかい【サンプル】 作家名:みもり