幻燈館殺人事件 後篇
「前当主の九条大河は、商人というより政治家でした。財を増やすことよりも、何かをすることなく地位と生活とを維持できる仕組みを作り上げることを優先していました。わたくしが当主代行を務めていられるのは、ひとえにそのおかげなのです」
「ご謙遜を。右も左も分からぬでは務まりません。外から見れば、この館での生活は魅力的だ。それはつまり、取って代わろうとする敵の存在を意味する」
「確かに、外戚であるわたくしには味方はおりませんでしたけれど、それはもう昔のことです。前当主の九条大河、その息子の九条怜司と怜司の妻である代美、この三名は転落事故で帰らぬ人となり、千代さまだけが残されました。九条大河に兄弟はなく、千代さまが正当な継承者であることは火を見るより明らかなこと。各事業の長や財閥内の有力者たちの心配事は地位と財を奪われることですから、そこを保障して差し上げれば、彼らが千代さまの継承に関して異を唱えることはありません。わたくしが当主代行を務めるのも、あくまで千代さまがご成人あそばすまでのこと。野心を秘めた男に代行を任せて九条を乗っ取られる危険を冒すより、無知で扱いやすい女を傀儡にしたほうがよいと考えたのですよ」
「自らを無知と呼ぶ者に、本当に無知な者はいないと言います」
「哲学的ですわね」
「それに、地位と財とを求める者は他にもいる。たとえば……」
不意に、ドンドンドン、と立て続けに強く扉が叩かれた。
間をおかず、怒声とも罵声ともとれる金切り声が響く。
「蝶子さん! いるのは分かっています! 逃げ隠れせずに出ておいでなさい!」
「何事でしょう?」
蜂須賀がそう冷静に問うことができたのは、目の前の奇咲蝶子に微塵の動揺も見られなかったからだ。
「足利家の麗子さまです。十年も経つというのに、私が当主代行になったことが未だにご不満なのです」
「というと、九条の親戚筋ですか」
「分家、と呼んだほうが近いですわ」
再び扉の向こうから怒声とも罵声ともつかぬ金切り声が聞こえる。
「また男を連れ込んだそうね! あの姉にしてこの妹ありだわ! 恥を知りなさい!」
「私に敵が存在するのであれば、それはきっとあの方たち。私はあの方たちから千代さまをお守りしなければなりません」
奇咲蝶子の声からは、明らかにハリが失われていた。
「では、これにて失礼します。素敵な時間でした」
蜂須賀は、紅茶を一息に飲み干して立ち上がる。
相続に関する問題は、余人が思うよりもずっと深くずっと複雑なものであり、安易に介入すべきものではないことを蜂須賀は知っている。
ただ、無理を言って同行してよかった、と蜂須賀は改めて思った。
扉はまだ断続的な強打を受けていた。
「あなたたち姉妹は本当に男漁りがお得意ですのね! あの男は父親で、その男は情夫なのでしょう!?」
「あの方たちは千代さまの継承に異を唱え、九条の地位と財産を狙っているのです。本当に迷惑なことで……あらいけない、つい不満を漏らしてしまいました。蜂須賀さま、どうか聞かなかったことにしてくださいまし」
「分かりました。全て忘れましょう。ですが、貴女は」
奇咲蝶子の様子を見れば、この暴言騒動が初めてのことではないと察しがつく。十年もの間、同様のことが続けられていたとすれば、その影響は計り知れない。
介入すべきではないと頭では分かっていても、踏み止まるのは至難の業だ。
「私は千代さまのことだけを考えておりますから」
「そこまで献身する理由は、貴女の中にある正義ですか?」
奇咲蝶子は目を閉じて、紅茶を一口だけ含む。
その様は、蜂須賀でさえも目を奪われてしまうほどに優雅で美しく、扉越しに聞こえてくる雑音を意識から弾き出しもした。
そうして奇咲蝶子は柔らかく笑う。
「わたくし、紅茶が大好きですのよ」
作品名:幻燈館殺人事件 後篇 作家名:村崎右近