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幻燈館殺人事件 後篇

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* 3 *


 蜂須賀の正面には、幻燈館があった。
 幻燈館は山間の村にはおよそ似つかわしくない外観をしているが、それを見据える彼もまた、周囲の景観とは相容れない存在感を放っている。一切の事情を知らぬ者の目には、幻燈館の住人である彼が自身の館に帰ってきたようにも映るだろう。
 周囲からはそのように見られる蜂須賀の目にも、黒塗りの幻燈館は異質の存在として映った。
 夕刻と呼ぶには些か尚早と言える時間帯、村は不気味なほどの静けさに包まれていたが、幻燈館だけはその例外にあって、何をそんなに、と思うほどに右へ左へと走り回る様子が館の外からでも確認できた。
 蜂須賀は、明後日に控えた‘お披露目’の準備であることをすぐに察した。
 それは、花明から予め事情を聞いていたからなのだが、右へ左へと忙しなく走りまわる館の使用人に対して躊躇なく声を掛け呼び止めることができるのは、蜂須賀本人の資質によるものだ。
「こちらで花明栄助が世話になっているはずなのだが」
 蜂須賀には自信がある。その自信は、彼が内務省の役人という高い身分にあることとは関係がない。自信は立ち振る舞いに反映される。振る舞いは身に纏う空気を変える。
 権威をかさにきて威張り散らす小物ではないという自負もある。
 詰まるところ、蜂須賀は自分が命令を下す側の人間であることを理解しているのだ。
 けれど、決して驕らず、決して高ぶらず。
 それは、他の誰でもない自分自身が権力に屈さないということ。権力に魅入られないということ。
 その声は清廉にして高潔。聞き流すことは、粗暴な恫喝を無視するよりも遥かに難しい。
「では、ご案内いたします」
 少しばかりの問答を交わしたのち、蜂須賀は一階の客間へと通された。
 幻燈館へ足を踏み入れた蜂須賀は、まず館内の暖かさに歓心し、壁や柱が外観と同じく黒で統一されていることに関心した。
 玄関口から見えた二階へと続く階段がそうであったように、客間にもまた、アールヌーボーを思わせる調度品が飾られていた。
「お掛けになってお待ちください」
 蜂須賀を案内した使用人は、深々としたお辞儀を見せて客間を退出する。
 そうして一人になった蜂須賀は、改めて室内を見回した。
 天井にはクリスタルガラスのシャンデリア。足元には深紫の絨毯。壁には陽光に煌く湖畔の絵画。
 一通り眺め見た蜂須賀は、そこに正体不明の違和を感じて小首を傾げた。
 配色や調度品の趣向における好みの違いこそあれど、家具の配置や清掃具合には文句のつけようがない。
 幻燈館ほどではないが、一般庶民から見れば豪邸に分類される館に住む蜂須賀は、かつての花明のように住む世界の違いを感じて言葉を失うこともない。
「不足でもなし、過剰でもなし。では何が」
 そう独りごちつつ二人掛けの長椅子に腰を落ち着かせると、蜂須賀は違和の正体を探ることを止めて目を閉じた。
 それからほどなくして、客間の扉が開かれた。
 扉を開いたのは、花明でもない、ここまで蜂須賀を案内した使用人でもない。
 切れ長の目が印象的な、美しい、という言葉以上の形容を必要としない洗練された女性の姿があった。その姿を見れば、使用人ではないことは一目瞭然であり、ただの館の住人でもないことにも考えが及んだ。
「当主代行を務めております。奇咲蝶子と申します」
 奇咲蝶子は挨拶の傍らそのような簡潔な自己紹介を行った。
 蜂須賀も同じく簡潔に名を告げる。
「花明さまは外出なさっておられます。なんでも、以前お世話になった方にご挨拶しておきたいのだそうで、日暮れまでには戻る、と」
「分かりました。ではまたその頃に」
「蜂須賀さまのお話は伺っております。花明さまは、戻るまで待っていて欲しい、とのことでございました」
「それはありがたい申し出です。ですが、日暮れまでにはまだ随分と時間があります。村から出さえしなければ、この館を見失うことはなさそうですから、時間潰しがてらに周辺を散策させていただきます。うまくいけば会えるかもしれない」
「何かお急ぎのご用件がお在りなのでしょうか?」
「いえ、そういうわけではありませんが」
「でしたら、少しお時間をいただけますか? 本当は花明さまにお願いしようと思っていたことなのですが」
「花明に? 見るからに忙しそうですからね。お役に立てるのなら尽力しましょう」
「仰る通り、今は立て込んでおりまして、息をつく暇もありません。ですから、こうしてお客さまのお相手を口実にして、僅かばかりの休息をいただこうという魂胆ですわ」
「そういうことであれば、喜んで」
 奇咲蝶子はにっこり笑うと、開いたままになっている扉へ向かって声を掛けた。
「笹垣。運んで頂戴」
 扉の影から、陶製の白い食器を載せた台車が姿を現した。
 その中に一つだけ湯気を立てているものがある。
「紅茶をお飲みになったことは?」
 台車を引き受けた奇咲蝶子が完全に室内に入ると、客間の扉がゆっくりと閉まった。
「数える程度には」
 扉の向こう側から、微かな歩み去る足音が蜂須賀の耳に届く。
「やはり殿方は珈琲のほうがお好みなのでしょうか?」
「帝都にあるカフェでは紅茶を見かけません。それは、紅茶は女性が飲むもので、男は珈琲を飲むべし、という風潮があるからなのです。しかし、そのように言われると飲んでみたくなるのが人情。しかし、人前では恥ずかしい。ならばどうするか」
「女に付き合って渋渋飲んでいる、という口実を求めるのですね」
「その通りです。表立って飲むことはありませんし、単身で飲んだことは口外しません。そのため、男は紅茶を飲まない、という風評が立つのです」
「では蜂須賀さまには、紅茶の付き合いを求めてくるご婦人がいらっしゃるということですね」
「紅茶好きを公言している文豪もいるではありませんか」
「そうですわね。さぁどうぞ、お掛けになって」
 奇咲蝶子は蜂須賀との会話を続けながら、二人分の紅茶を用意していた。
 蜂須賀はそんな奇咲蝶子の手際に素直に感心していた。
 紅茶は庶民の生活に全くと言っていいほど浸透していない。手順が複雑であったり、専用の道具が必要であったりと理由は幾つもあるが、何よりその値段の高さが問題だった。
 紅茶はとても高価な嗜好品である。国産品はその全てが輸出用に生産されており、国内消費に回されるものは、売り物にならないような茶葉ばかりである。よって、そのほとんどが生産者たちに消費されている。
 国内市場に出る茶葉は全てが輸入品。数に限りがある。故に、常用として嗜む者は少なく、手順等の啓蒙活動もほとんど行われていない。
 政治、経済、文化、あらゆるものの中心である帝都に住んでいる者であっても、紅茶に関する正しい知識を得るのは簡単なことではない。
「実は、貴女に興味がありました。こんなに早く機会に恵まれるとは思ってもみませんでした」
「それは、女の身で九条の当主代行を務めているからですか?」
「気分を害されたのなら謝罪します。それは決して本意ではない。女だから男だからというのは関係なく、その若さに敬服しているのです」
「お砂糖は?」
「いただきます」
作品名:幻燈館殺人事件 後篇 作家名:村崎右近