幻燈館殺人事件 後篇
「はい。……十五年前、九条吉乃は何者かに殺害されておりました。当時、一介の巡査部長でしかなかった私は、上からの命令に逆らうことはできず……」
「そんなことは聞いていない。九条吉乃の遺体を見たのか?」
副署長はがっくりとうなだれる。自分が同席していた理由を思い知ったのだ。
「はい。この目で」
「どんな様子だった?」
「四肢は酷く変形し、原形を留めぬほどに破壊されておりました」
「つぎに、十年前の殺人事件について話してもらおうか」
「き…記録上は事故死となっていますが、九条怜司は九条大河を刺し、九条代美を刺殺した女と逃亡。その後の消息は不明……です」
「九条怜司は逃亡直前に母親を殺したことを告白している。その場に居合わせた者から聞いた。九条怜司が九条吉乃の殺害に及んだ理由は殺戮衝動にあった。殺害後、九条怜司は相貌失認症になっていた。相貌失認とは人物を顔で判断できないという状態だ。幻燈館に飾られている絵が風景画ばかりで人物画が一枚もないのは、相貌失認に陥った九条怜司への間違った気遣いといったところだろう」
「それはおかしくないですか?」と秋月が疑問を呈した。
「先ほど法継さまは殺戮衝動を引き起こすキノコは何代も前に全滅していると仰いました。キノコが全滅しているはずの十五年前に発症しているのは、どう考えても変です」
「その通り。十五年前に殺戮衝動が発症することなど考えられない」
蜂須賀は自身の前言を否定し、秋月を全面肯定する。
「話は単純。十五年前も今回と同じ毒が使われていたというだけの話だ」
テーブル上に置かれたままのキノコ片に視線が集中する。
「問題は、どうやって毒を飲ませたのかだ。足利義史と壬生俊継に毒を飲ませるのはそう難しいことではないが、毒を用意した本人である山本六郎太に受け取ったその場で毒を飲ませるのは容易ではない。どうすれば毒を飲ませることができるか、それが難関だった」
蜂須賀は自分の前に置かれた紅茶を一口飲んだ。
それを見て、思い出したようにそれぞれがティーカップを口に運ぶ。
「坂上君は飲まないのか?」
「いえ、私、紅茶は飲んだことがないので」
「それはおかしいですわ。わたくしの前でお飲みになっていたではありませんか」
その声を聞いた途端、坂上の表情が驚愕の色に染まる。
「さて何の話だったか」
蜂須賀は坂上が見せた反応には触れなかった。
「そうだ。山本六郎太に毒を飲ませた方法についてだった。何事も弱点を突くのが鉄則。山本六郎太は女に弱い。色欲を刺激すれば隙が生まれる。山本六郎太に毒の入手を依頼したのも、色仕掛けによる篭絡が容易であったから。察するに、毒の入手の報酬は肉体関係、性交渉を持つことだったのだろう。報酬として強要されたのかもしれないが、そこは問題ではない。口に含んでおき、接吻の際に流し込む。あとは猫なで声で耳元に囁くだけだ。飲んで、とな。この説には全く自信はなかったが、どうやら遠からずといった方法だったようだ」
蜂須賀は紅茶をもう一口飲んだ。
「十五年前、このキノコの毒素によって‘殺戮衝動もどき’を発症した九条怜司は、母親を殺したあとで正気に戻りはしたが、相貌失認症になっていた。そして壬生俊継は、深津政重を殺害したことで正気を取り戻したと類推するが、やはり相貌失認症になっているのだろう」
「それで僕や妻が誰だか分からなかったのか」
壬生法継は俯き加減にそう言った。息子の大事に際して微笑みの仮面を維持できないようだ。
「相貌失認症は、キノコの毒によって引き起こされた‘殺戮衝動もどき’の後遺症として発症するようだ。医学的な根拠は何もないが、疑いを向ける価値はある。さて、坂上君」
蜂須賀はおもむろに坂上に向き直る。
「この紅茶を淹れた女性の名前を答えてくれるかな?」
「何を言っているんですか。さっき蜂須賀さんが紹介してくれたじゃないですか」
「では、彼女とは初対面かな?」
「そんなこと聞いてどうなるんですか」
「彼女は前に会ったことがあるように言っていたが?」
「覚えていません」
「では彼女に尋ねてみよう」
蜂須賀は、陶製の食器を載せた台車の脇に立つエプロンドレス姿の女に目を向けた。
「貴女は、ここに座っている女性と会ったことがありますか?」
「はい」
「それはいつ?」
「昨日の午前中ですわ」
「それはどこで?」
「ここ幻燈館で」
「そのとき誰かと一緒でしたか?」
「足利家の義史さまと」
「お前…奇咲蝶子かっ!!」
坂上の怒号が響いた。
同時に壬生法継が足利麗子の前に立ち、赤碕が扉の前に移動する。少し遅れて副署長も立ち上がり、窓側へと移動した。
「ご協力、感謝しますよ」
蜂須賀は奇咲蝶子に礼を述べた。
「昨日の朝、花明さまがいらっしゃった直後のことです。義史さまが見慣れぬ女性を連れてお越しになりました。千代さまの継承を認めていただけるようお願いするため、わたくしがお呼びしていたのです。お二方にはわたくしの手で淹れた紅茶をお出ししました。女は化粧で化けると言いますけれど、同じ女同士ですし、間近でじっくりと拝見したお顔を間違えることはありません」
奇咲蝶子はちらりと蜂須賀を見た。
「この十年の間ならば、一度会った方のお顔を忘れたことはありませんもの」
窓の外、中庭には待機していた警官たちが姿を見せ始め、広間の中にも警官たちがなだれ込むように入ってくる。
「申し開きは署で聞く、と言いたいところだが、まだ足掻きたいのであれば相手をしないでもない」
蜂須賀は懐中時計を取り出して時刻を確認し、テーブル上にあったキノコの切れ端を丁寧に包むと、入ってきたばかりの警官に手渡した。
「いつ…から…?」
「疑っていたのは最初からだ。というより、誰も信用していなかった」
蜂須賀は無表情無感情に言い放つ。
「誰も信用しない相手なんじゃあ、騙せやしないね」
坂上は少女ではない女の顔で、にやり、と笑う。
「どうして分かったのさ。どこに穴があったの」
「望むならば聞かせてやる。穴は花明栄助の存在だ。花明がこの村を訪れることは予想していなかったのだろう。研究は凍結されているし、花明自身、九条千代の後見人であることを誰にも明かしていない様子だったしな。
花明が幻燈館にいることを知って、犯人に仕立てあげようとしたのだろうが、それが良くなかった。
山本六郎太、足利義史、そして深津政重を殺害した壬生俊継、この三人に薬物を飲ませたのが同一人物であるとすれば、少なくとも二日前にはこの村に入っていなければならない。足利義史は昨日の午後、山本六郎太はそれより早い時間、遅くとも昨日の午前中までに命を落としている。昨日の午前中に着いたばかりの花明には、キノコの毒の入手を依頼することはできても、依頼を受けた相手が探しに行き、発見し、持ち帰り、毒素を抽出したそれを受け取るまでの時間はない。この時点で花明への疑いはほぼ払拭された。
とはいえ、普通の捜査が行われていれば簡単に容疑者を割り出すことができていたはずだが、九条家と関係のある花明が消息を絶ったことで、欲に目が眩んだ馬鹿どもが暴走してしまったことは否めない。それは君にとっては幸運だったかもしれないな」
「結局、貴方がいたからなのね」
作品名:幻燈館殺人事件 後篇 作家名:村崎右近