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幻燈館殺人事件 後篇

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 十年前の‘事故’によって、九条の血を身に宿した人間は九条千代ただ一人になってしまった。当時四歳であった九条千代がまだ殺戮衝動の狂気に蝕まれてはいなかったとしても、殺戮衝動の血が途絶えたわけではない。九条が九条である限り、いつ使用人が入れ替わっても不自然ではない状況を維持し続けなければならない。
 九条の血族ではない奇咲蝶子が殺戮衝動を知らなかった、或いは信じなかった、ということも考えられる。
 であれば、これからまたいつ使用人が入れ替わっても不自然ではない状況に戻すことも考えられる。笹垣に暇を出すのはその第一歩なのかもしれない。
 考えれば考えるほどに、蜂須賀は言葉を失っていった。
「千代さまは幻燈館から一歩も外に出ておりません。犯行が不可能なのは誰の目にも明らかではございませんか」
「現場近くで九条千代を見た、とそう証言するものが一人いれば崩壊してしまう」
「まさか。そんなことあるはずがありません」
「九条の財は魅力的なのです。目撃証言を捏造してでも手にしたくなる。彼らのような金と権力の亡者ならばね。亡者の欲には際限がない。金を手に入れ、権力を手に入れ、その次に手を伸ばすものは自ずと決まる」
 奇咲蝶子は蜂須賀の言わんとすることを察して息を飲んだ。
「貴女は美しい。貴女の姉もきっとお綺麗だったのでしょう。美人姉妹の血を継ぐ九条千代もまた、極上の美女になる。けれど想像するのはとてもつらい。亡者どもに弱みを握られ逆らうことのできない美人の行く末などは」
 下劣でもなく、卑しくもない。蜂須賀は淡々と告げる。想像に易い未来の図を。
「譲歩は亡者どもを調子付けてしまうだけ。守るつもりであっても鎖で縛ることになる」
 蜂須賀は、黙して動かぬ奇咲蝶子にたたみかけた。
「わたくしにどうしろと仰るのですか」
「九条千代と話しをさせていただきたい。犯人逮捕のために」
「蜂須賀さまは、千代さまが犯人だとお考えなのですか」
「分かりません。予断を持って臨んでは、真実がかすんでしまいます」
「真実とはそれほど大事なことでしょうか?」
 愁いを帯びた瞳。男を虜にする魔性。
 それを手に入れた奇咲蝶子ならば、大抵の男は撃退できるだろう。だがそれが女としての武器である限り、いつまでも続きはしない。
「分かりません。皆が幸せになるために覆い隠されるべき物事はあるのかもしれません。反対に、皆が幸せになるために明かされるべき物事があるように」
「わたくしが何かを隠している、とそのように聞こえますわね」
「隠し事のない人間などいませんよ」
「蜂須賀さまにも隠し事が?」
「ありますよ。実は、十五年ほど前に貴女にお会いしたことがある」
「まあ。けれどごめんなさい。覚えてはいないわ」
「無理もない。あのときの貴女の目には、余計なものが入り込む余地はなかった。訂正しますよ。会ったと呼ぶのには少しばかり語弊があり、見かけたことがある、が正しい」
「それはどこでのことかしら? 別人なのではなくて?」
「不肖この蜂須賀、美人の顔を忘れることは決してありません」
 手を胸に、蜂須賀は恭しく一礼して見せた。
「真面目なお話ではなくて?」
「真面目なお話ですよ」
 蜂須賀は立ち上がり、壁に掛けられた絵画の前まで歩いた。
「例えば港に停泊している貨客船が描かれたこの絵画。この絵は美しい。美しいものは見た者の胸の奥を掴んで離さない。美しいと感じることを忘れない限り、この絵を忘れることはない。そうでしょう?」
「その説には同意しておきますわね。続きをどうぞ」
「ありがとう。十五年前、貴女には愛する男がおり、その男の子供を宿していた。二人の間に生まれる新たな命があった」
 蜂須賀は奇咲蝶子に背を向けたままだ。
「蜂須賀さまが見かけたと仰るその女性はわたくしとは別人でしょうけれど、確かに妊娠しておりましたわ。隠す気もありません」
「生まれ育っていれば十四歳。九条千代と同じ年齢。貴女の子は今どこに?」
「残念ながら流産でしたの。申し訳ないけれど、その話は終わりにしていただけないかしら」
「九条千代は貴女の娘なのではないですか?」
「冗談はおよしになってくださいまし。姉の子ですから血の繋がりはありますし、少しばかりは実娘のように思っているところはありますけれど、千代さまは姉の子ですわ。同じ時期に子を授かったものの、わたくしは生むことができなかった。それだけです」
「九条千代が貴女の娘であれば、澤元教授が研究の完成を断念したことも納得できるのですよ」
「そのお話は不快ですわ」
「同感です」
 蜂須賀は即座に同意を示した。
「十年前、ふらりと幻燈館に現れた澤元教授は、九利壬津村の研究をやめることを宣言したました。澤元教授の研究は、衝動性殺人行動、或いは殺戮衝動と呼ばれる事象を対象にしていたと推測されます。花明から聞いた限りでは、澤元教授の研究は歓迎されていなかった。民宿・川辺の女将の話からも想像に苦しくない。
 では、歓迎されていなかった研究の終了、打ち切りをわざわざ報せた理由はなんだろうか。殺人鬼の血筋だと不名誉を被せている九条家に、謝罪するでもなく、それまでの研究を破棄するでもなく、ただ終了を告げる理由はなんだろうか」
 絵画に背を向け、奇咲蝶子に向き直る。
 奇咲蝶子が聞きの体勢に入っていることを確認して、蜂須賀は再び口を開いた。
「十年前といえば、不幸な事故によって九条大河と九条怜司が命を落とした年。九条千代が一人生き残った。けれど、澤元教授は研究を取りやめた。
 それはなぜか。研究の完成が不可能になったのではないか。九条千代では実証・検証が不可能だったのではないか。或いは、幼い九条千代を見て殺人や殺戮といった行為の恐ろしさ、おぞましさを思い出し、中止を決めたのかもしれない。ただしその場合は研究そのものに対して嫌悪を抱いたことになるのだから、全てを破棄するだろう。
 だが研究資料は破棄されておらず、今でも大学の資料室に保管されている。となれば、中止の理由は前者、九条千代では実証・検証ができないために研究の完成が不可能になった、と考えられる」
 奇咲蝶子は真っ直ぐに蜂須賀を見据えていた。
「九条大河・怜司親子と九条千代との違いは何か。まずは年齢。若すぎる九条千代では研究できなかったとしても、研究そのものを断念する必要は見当たらない。十年でも二十年でも待てばいい。澤元教授とて長期戦を覚悟していたからこそ、当時まだ学生であった花明を研究に参加させていたのだと思われる。
 つぎに性別。男性にしか発症しないという結果をいつ手に入れたのか。そんなものが存在しているのならば、澤元教授の研究は二番煎じとなる。女性には発症しないという結果は、九条千代の生涯を見届けたのちにようやく仮説として打ち立てられるものだ。
 年齢も性別も、研究を断念する理由にはなり得ない。むしろ、幼少期からじっくりと観察できるのだから、九条千代はこれ以上ない研究材料と言える。
 ではなぜか。九条千代自身に何らかの問題があるのは間違いない。年齢でもなく性別でもなければ、身体的な異常が原因か。
作品名:幻燈館殺人事件 後篇 作家名:村崎右近