幻燈館殺人事件 後篇
「その名の通り、前触れなく殺人行動を起こすものなのだそうです。実際に目にしたことはありませんが、それは存在する」
「意外ですわね」
奇咲蝶子は面食らったように驚きを口にした。
「信じられないのも無理はない」
「いえ、そうではなくて」と一旦言葉を切り、改めて続ける。「見たもの触れたもの以外は信用しない方だと思っておりましたもので」
「貴女は慧眼をお持ちのようだ」と蜂須賀は苦笑した。
「‘衝動性殺人行動’は、花明栄助が研究していたものです」
「まあ。花明さまの」
「その名称から、他者への攻撃性が異常なまでに高まる状態だと推察される。何のためらいもなく振り下ろせる状態であれば、女性の力でも人体の破壊は可能ですよ」
「信用するしかありませんわね」
「九条の血を引く者が発症する奇病だとしても、ですか?」
「それを証明するものはないのでございましょう?」
奇咲蝶子はやんわりと笑う。細めた目には、冷たく研ぎ澄まされた光がある。
「ご存知でしたか。人が悪い。そういえば、澤元教授をご存知なのでしたね」
「個人的なお付き合いはございませんが、この村で何を研究していたのかは存じ上げております。‘殺戮衝動’とそのように仰っておりましたわ。そして、‘殺戮衝動’を含有した人間、即ち殺人鬼を内包して成り立つ生活共同体、九利壬津村を研究している、いいえ、研究していた、と」
「研究していた?」
「澤元教授は、自ら研究をお止めになったのです。理由は分かりません。十年ほど前、突然この幻燈館をお訪ねになられて、『調査研究は終いにするから』と」
「十年前と言えば、転落事故があった頃ですね」
「ええ。十年前の転落事故では、大河さま、怜司さま、わたくしの姉の代美、それに運転手を加えた四名が亡くなりました。殺戮衝動に駆られた息子が妻と父親とを刺し殺して逃亡した、などという事実はないのですわ」
奇咲蝶子は顔色一つ変えずに淡々と話した。
蜂須賀は奇咲蝶子の意図が読めず戦慄する。そして、それを誤魔化すために着座した。
――花明から話を聞かされている可能性を考えなかったのか。
背中をつたう冷たいものを感じつつ、蜂須賀は次なる言葉の選定を始めた。
存在を認めつつ、そんな事実はないと跳ね除ける。分かりやすい矛盾。誰にでも分かる矛盾。その先には堂々巡りが待ち構える。そうして煙に巻く。では何のために。何が目的で。
そして辿り着く単純明快な解。手掛かりは二人の人物が語った内容。
一人は坂上蛍。文明社会にそぐわない後継者選定方法を隠すための‘衝動性殺人行動’の伝承。
一人は副署長。九条家の血筋に発症する‘衝動性殺人行動’を隠すための文明社会にそぐわない後継者選定方法。
この二つは正反対の内容を持つが、一つ共通点がある。それは、どちらとも九条家に不利益が発生している点。
二人の話に共通していること。多少の不利益不名誉を被ったとしても隠しておきたい真実の存在。隠さねばならない真実の存在。
解――真実の隠蔽。
蜂須賀は大きく息を吸い、そして吐いた。
「管轄署には、十年前の転落事故の記録が確かにありました。警察が把握する事実はそれ以外にはありません」
「それはこちらも同じでしてよ」
二人の会話は静かに踏み締めるように交わされた。新雪の上を歩くように、確かな痕跡を残していく。
「前任者の方針では、衝動性殺人行動による連続殺人として、その容疑者――九条の血を引く唯一の人物――から聴取を行うことになっていました。真の狙いは貴女との取引材料にすることだったようですが、現在の目的は犯人の逮捕です」
「理解しておりますわ」
「貴女と九条千代が犯人ではないという確証を得るために、九条千代と話しをさせていただきたい。この目と耳で確かめたいのです」
「お断りします。大切な時期ですから」
「それが通用しない相手がいることはご存知かと思いますが」
「今このときに肝要なのは、蜂須賀さまがそういった方ではないということですわ」
「拒み続ければ、そういった相手が貴女の前に現れることになります」
「そういった相手には、そういった相手なりの対処法がございます。蜂須賀さまよりよほど組し易い。あっと失言でしたわ。聞かなかったことに」
「それでは犯人を逮捕することができない」
「それはそちらの都合でございましょう。こちらにはこちらの、わたくしにはわたくしの都合がございます」
そこで蜂須賀は言葉を失った。
「どうかなさいまして? お飲み物が入用ですか?」
奇咲蝶子は微笑みかける。
勝者の顔で。達成感に満ちた顔で。
「いえ、己の非力を思い出したのです」
蜂須賀は襟を正して、仕切り直しだ、とばかりに背筋を伸ばした。
「飲み物と言えば、紅茶の作法を使用人に教えておいでだそうで」
奇咲蝶子から、受けて立ちましょう、と笑みが消える。
「まだ笹垣にだけですわ。彼女には近々暇をだそうと考えておりますの。そろそろ別の人生を考えてみてもよい年頃。都会に新しい勤め先を求め、そこで良縁に恵まれればと思っています」
「彼女ほどの器量ならば、嫁にと望む声は止みはしないでしょう」
「蜂須賀さまの目に留まったのでしたら、この上ない良縁なのですけれど」
「高く評価していただき光栄ですが、職務上、上役の顔を立てねばなりませんのでね。愛する相手も自由に選べない籠の鳥なのですよ」
「ではせめて、帝都での働き口をご紹介いただけませんか? 四年も尽くしてくれたのですもの。滅多なところへは出したくないのです」
「当ては幾らかありますが、彼女はここに想い人がいる様子。恋仲を引き裂く憎まれ役は御免ですよ」
「まあ。わたくしちっとも気づきませんでしたわ。お相手はどなたなのかしら? あっと。詮索するのは無粋でしたわね」
「それにしても、四年もここで働いていたのですね」
蜂須賀は、感慨深く言葉を鎮めた。
十年前の幻燈館では二年以上働く使用人はいなかった。主の傍仕えである執事でさえもだ。その理由は、前当主である九条大河が他人を信用していなかったために長く置くことを嫌った、とされており、それは蜂須賀も耳にしている。
信用できないからこそ同じ人物を長く使うのではないか、という疑問はあるが、信頼に変わってしまう前に、と考えれば納得できないこともない。少なくとも蜂須賀にはその思考が理解できた。
理由はともあれ、注目すべき点はいつ使用人が入れ替わっても不自然ではない状況であったということだ。そこに‘九条家の血筋にのみ発症する衝動性殺人行動’という道標を加味すれば、別の理由も見えてくる。
発症した殺戮衝動を解消するための生贄、だ。
殺害と遺棄による消息不明者が出ても、他者を拒絶する山奥の屋敷であれば発見を遅らせることができる。頻繁に入れ替わっていれば、ある日から突然に姿を見かけなくなってもそれほど不思議に映ることもない。九条家であれば裏工作による隠蔽は可能だ。
しかし、現在の幻燈館は違う。
奇咲蝶子は使用人の身を案じ、将来の手配をし、幸せであるようにと願って送り出そうとしている。明らかに情が移っている。二年以上働く使用人は他にもいるだろう。
作品名:幻燈館殺人事件 後篇 作家名:村崎右近