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幻燈館殺人事件 後篇

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「いえ、依頼を止めたのは個人での仕事に限ってのことで、大勢で行う作業には参加していただいております。幻燈館が彼を出入り禁止にしてしまうと、他の三家も彼を使うことができなくなってしまいますから、蝶子さまは、彼にも生活があるでしょう、と温情をお掛けになったのです。個人的には出入り禁止にして欲しかったのですが」
 漏れでた本音に気付き、慌てて口を抑える。
「貴女も何かされたのですか?」
「え…ええ。体を触られそうになったり、耳元で子作りしようと囁かれたり、ああ、思い出すだけで鳥肌が」
 笹垣は肘を抱いて小刻みに体を揺らした。
 洋装が浸透していない山間部の村では、幻燈館の使用人が着用しているエプロンドレス
であっても着飾った貴婦人に見える。奇咲蝶子の傍では霞んでしまうものの、笹垣もまた洋装が似合う美しい女性だ。社交場に連れ行けば、主役の一人となるだろう。
「私が何より心配していたのは、あの男が千代さまに手を出しやしないかということでした。そうして三日前のことです。あの男が千代さまにいやらしい視線を向けているところを目にしました。ああ、おぞましい。千代さまは可憐に美しく成長なさいました。そんな千代さまをあのケダモノが放っておくわけがなかったのです。次の日は、千代さまにもしものことがあってはならないと警戒していたのですが……」
「彼は姿を現さなかった」
「そうです。よくお分かりですね」
「そのことは誰かに話しましたか?」
「いいえ」
「では確認しますが、三日前というのは間違いありませんか?」
「ええ。お飲みになっているその紅茶の茶葉が届いた日です。舶来の品ですから、月に一度しか届かないのです。受け取りから保管まで、茶葉の管理は全て私が任されております。届いた茶葉を受け取って、保管場所まで運ぶ途中のことでしたから」
「舶来品でしたか。道理で素晴らしい味なわけだ。その味を引き出すのは至難の業だと聞いております。紅茶の作法はどちらで?」
「蝶子さまに教えていただきました」
「なるほど。ありがとう。いい話を聞けました。お礼に一杯淹れて差し上げたいところですが」
「お客さまに淹れさせたとあっては、蝶子さまに叱られてしまいます」
 笹垣は固辞した。それは使用人としての立場上、当然のことだった。だから蜂須賀もそれを見越している。
「戯れに淹れた一杯の味を見て、それを評していただければよいのです。世辞でも社交辞令でも、勿論、辛辣でも。わがままな客の戯れですよ」
 蜂須賀は有無を言わさず立ち上がり、湯の入った陶器に手を伸ばしたが、湯は残り少なく、冷めかけてもいた。とてもではないが、紅茶を淹れるにふさわしい湯ではない。
「ふむ。残念だ」
 蜂須賀は無表情でそう言った。

 *

 使用人・笹垣が退室したあと、部屋に残った蜂須賀たちの間に会話はなかった。蜂須賀が目を閉じ何事かをじっと考え込んでいたからである。
 俄かに喧騒が響いたのは、室内の物色を終えた赤碕が腰を下ろした長椅子の柔らかさに幾分慣れ始めた頃だった。
「騒がしいな」
 蜂須賀は動かず目を閉じたままだ。
「見てきましょう」
 皆川は即座に廊下に通じる扉へ足を向けた。
 普段ならばいざしらず、人が二人も死んでいる状況では、余所の屋敷とはいえ些細な物事も無視することはできない。
 皆川が扉を開けると、男の怒鳴り声がはっきりと聞こえた。玄関方面から聞こえるこその声は、蜂須賀にも聞き覚えのあるものだった。
「副署長の声だな」
 蜂須賀の声に、皆川は足を止めて振り返った。
「山狩りの陣頭指揮を執ると聞いていましたが、何か進展があったのかもしれませんね」
「幻燈館に現れたからには、な。どうやら行ったほうが良さそうだ」
 三人は廊下を歩き玄関口へと向かう。
 幻燈館の蒸気暖房は館の隅々までを暖める。廊下に出ても室内と温度が変わらないことに、改めて驚く。
「これは副署長、奇遇だな。幻燈館へは何用で?」
 玄関口に副署長の姿を認めた蜂須賀は、嫌味をたっぷり込めて高らかに問いかけた。
「失礼ながら、貴方であっても捜査情報をお話しすることはできません」
 蜂須賀は、やはり捜査に進展があったのか、とほくそ笑む。
「美人と噂の当主代行に会いにきたのか」
「ははあ、先約というのは貴方のことでしたか。この女中が言うには、先約がありそれさえも待たせていて、さらに長く待たせることになるから、一旦帰って出直せなどと頭の悪いことを言うのですよ。こちらは殺人事件の捜査で訪ねているのだ。先にまわすぐらいの融通を利かせるべきでしょう? そうは思いませんかね?」
「全くその通り。捜査のためであれば順番を譲ろう。しかし、今現在の所用を中断させるまで呼びつける権限はない。犯人として逮捕できる証拠をお持ちなら話は別だが」
 副署長の口から異論がでないことを確認して、確信する。
 何らかの進展があった。しかしそれは即逮捕に至るものではないのだ、と。
「さぁさ、待ち合いまで案内しよう」
 客間に戻った蜂須賀は、先ほどと同じ場所に腰を下ろした。その対面には副署長が座り、随伴していた捜査員たちが座らず後ろに並ぶ。
 蜂須賀は、正面に座る副署長を改めて見据えた。
 署で会ったときとは異なる自信に満ちた高慢な態度と物言いは、完全に別人のものだ。これほどまでに変わってしまうのには何らかの理由がある。蜂須賀はそれを見極めんとしている。尤も、すでにある程度の予想はできていた。
 階級差や所属、肩書き等の上下関係を無視するということは、それらをひっくり返す算段があるということだ。僅か一夜で地方署の副署長が蜂須賀の上の立場になるなどということは現実的ではなく、階級や肩書き等のはっきりと示すことができるものを持っているのであれば、それを示しているはずだ。と、蜂須賀は考えた。
 階級や肩書きといった権威に固執する者は、総じて小物だ。これは蜂須賀の経験則である。
 上下関係をひっくり返す大きな後ろ盾を得る算段がついた。
 蜂須賀はそんなところだろうと推測する。その先は簡単だ。
 屈指の財閥である九条家。後ろ盾とはそれだ。意気揚々と乗り込んできたのは、九条を操るための、巨額の資金を提供させるための、何らかの弱味を握ったからに違いない。となれば――蜂須賀は思考をめぐらせる。
「捜査の進展はどうかな?」
「ご友人の発見には未だ至っておりませんね。お可哀想に。こんな事件に巻き込まれてしまうとは、運のない方だ」
 副署長は、目を伏せ頭を左右に振って、大袈裟に嘆いてみせる。本心ではないことは誰の目にも明らかだ。
「巻き込まれて? 犯人として行方を捜していたのではないのか?」
「あ、あくまで重要参考人ですよ」
「そうだったな、失礼した。では、この幻燈館に重要参考人を捜し出すことよりも事件を解決に導く何かがあって、それを確かめに訪れたのだな。そうでなければ、陣頭指揮を執っていた指揮官が現場を離れるなど言語道断だからな」
 蜂須賀の冷然とした眼差しは僅かな罪悪感を的確に射抜き、無感情な物言いは些細な逸脱でさえも容赦なく責める。本人にその気があろうとなかろうと関係なく、だ。
作品名:幻燈館殺人事件 後篇 作家名:村崎右近