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幻燈館殺人事件 後篇

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* 12 *


 幻燈館は村のほぼ中央に位置しているため、物陰にでもいない限りは村のどこからでもその黒塗りの様相を目にすることができる。一見の者であっても、幻燈館への道を迷うことはない。
 先頭を歩く蜂須賀は、いつもより遥かに早足で歩いていた。彼自身、自分が早足で歩いていることを自覚していない。
「しばらくお待ちいただくことになりますが」
 幻燈館に到着すると、蜂須賀はすぐに奇咲蝶子への取次ぎを頼んだが、取り込み中とのことで通された客間で待つことになった。
 しかし、客間で待つように言われるであろうことは織り込み済みだった。
 そもそも蜂須賀には奇咲蝶子に会う理由はない。幻燈館に入るための方便のようなもので、第一目的は奇咲蝶子以外の口から山本六郎太に関する話を聞き出すことだ。それが済めば奇咲蝶子に会う必要はない。万が一の場合も、民宿川辺での出来事の報告という名分がある。
「では、しばらくおまちください」
「先日こちらでいただいた紅茶はとても美味しかった」
 使用人の女はほんの一瞬だけ表情を強張らせる。なんと無作法な、と顔に書いてある。
「……分かりました。お持ちいたします」
 使用人が退室した直後、赤碕が、ぶはあ、と息を吐き出し、何事かと視線を送る二人に向かって、別世界のようでうまく呼吸できない、と言った。
 皆川は昨日の我が身を見て苦笑するしかなかった。
 赤碕は制服から私服に着替えている。蜂須賀がそうさせた。赤碕が身に付けているジャケット、ベスト、シャツは、警察官になったお祝いにと両親から贈られたものだ。洋装は帝都内では決して珍しくないが、山間部では奇異の目で見られてしまうため、着るに着られなかったらしい。箪笥の肥やしであったはずの洋装一式が妙に小慣れて見えるのは、暇を見ては室内で袖を通していたからだ。
「背筋を伸ばせ。腹に力を入れろ。そうすれば良家の男子に見えないこともないぞ」
 赤碕は蜂須賀の助言に力無く返事をし、そのまま所在無さげに徘徊を始め、蜂須賀は椅子に深く身を預けて目を閉じた。
「綺麗な絵ですね」
 しばらく家具や調度品に興味を示していた赤碕は、壁に掛けられた絵に目を向け始めた。
「芸術というものは分からんのですが、この絵は本当に綺麗です。こんな場所があるのなら是非行ってみたい。一体どこの風景なのでしょうか」
 その言葉に興味を引かれた皆川が、絵の前に歩み寄る。しかし、どの場所が描かれたものなのか分かるはずもなく。
「昨日の部屋も風景画が飾られていましたね」
 花明が宿泊するはずだった客室には、一面の花畑が描かれた絵画が飾ってあった。
「廊下もそうでしたよ。なんだか風景を描いたものばかりですね」
 それを聞いて、蜂須賀はほんの少し口角をつり上げる。
「人物画がないのだな」
 蜂須賀は一人で納得した。
「紅茶をお持ちしました」
 やがて紅茶を運んできた使用人は、蜂須賀たちをこの部屋まで案内した使用人とは別人だった。
「確か昨日の」
 蜂須賀よりも先に、皆川が反応する。
 蜂須賀が奇咲蝶子と話したときに紅茶の一式を運び入れた、笹垣と呼ばれていた女中だ。
「はい。昨日もお目に掛かりました」
 しずしずとふかぶかとお辞儀をする笹垣。その表情は僅かな緊張をはらんでいる。それを見逃す蜂須賀ではない。しかし――
「貴女が紅茶を淹れてくださるのですか」と、皆川が出鼻を挫いた。
「幻燈館で紅茶を淹れられるのは、蝶子さまと私と、もう一人しかいないのです」
「そんなに難しいことなのですか」
「用法を守り手順に従って淹れたものとそうでないものとでは、別物と呼んでも差支えがないほどの違いがございます」
 笹垣が湯の入った陶器を手に取ると、それを境に皆川は口を止めた。
 笹垣の動作に淀みはなかった。奇咲蝶子のそれと比べてもほとんど遜色は無いが、同時に会話するほどの余裕はないようだった。
「どうぞ」
 差し出された紅茶を一口、蜂須賀は無言で頷く。熱さに驚いた赤碕が落ち着いて味わうのを待ってから、最後に皆川が口をつけた。
「とても美味しい。ありがとう」
 蜂須賀は礼を述べる。そうして、お礼の代わりにはならないが、と続けた。
「紅茶を淹れられるのは三人と言っていたが、最後のもう一人が誰なのか当ててみせましょう。うまく当てることができたなら、男ばかりが三人のこのティータイムに、一輪の花を添えていただきたい」
「お客様を退屈させぬように言い遣っておりましたし、何よりそのような素敵な誘いをお断りするわけには参りませんわ。それでは、最後のもう一人のお名前をお聞かせくださいますか?」
 蜂須賀は、フフン、と勿体つけて笑う。
「最後のもう一人は、九条千代でしょう」
 笹垣の表情が驚きに染まる。
「驚きました。正解でございます。もしや、蝶子さまから聞かれていたのですか?」
「いいえ、何も聞いていません」
「ではどうしてお分かりになったのでしょう?」
「分かっていたのではありません。実を言うと、他の方の名前を知らないのですよ」
 蜂須賀に答えられる名前は、目の前にいる笹垣、奇咲蝶子、そして、九条千代の三人分だけしかない。蜂須賀にしてみれば、唯一残っている名前を口にしただけだ。
「少しでも長く留まってもらうことが目的でしたから、正解であろうがなかろうがどちらでも構わなかったのです。たまたま正解でしたが、正解でなければこちらが質問する側に回ることで目的そのものは達成できる。欲を言えば、不正解であったほうが都合が良かった」
「ということは、何か私に質問があるのですね?」
「話が早くて助かる」
 蜂須賀は、ティーカップをソーサーへと降ろした。
「山本六郎太、という男をご存知ですか?」
「はい。個人的なお付き合いはありませんが、庭の手入れや力仕事があるときにお願いしておりました」
「実は、彼に仕事を頼もうかと考えておりましてね。それで、こちらでも仕事を請け負っていると聞いたもので、仕事ぶりやこちらでの仕事の予定などを聞かせていただけないかと」
「そうですね……普段は豪放磊落な方でしたが、お仕事となると人が変わったように細部までこだわりを見せておりました。そんな仕事ぶりには蝶子さまも感心なさっていたようです。しかし…その……」
 これまではきはきと話していた笹垣は、突然言い淀んだ。
「何か問題が?」
「ええ、その、女性に色目を使うのです。肩や手だけではなく、おしりを触ったり、卑猥な言葉を並べ立てたりするのです。何度言っても止めないので、ほとほと困っていたのです」
「花明に聞いたことがある。地方や山間部には‘娘と後家は村のもの’という風習があるのだとか。この九利壬津村は違うようだが、彼が生まれた村ではそうだったのだろう」
「ある日、事もあろうか蝶子さまを押し倒したのです。私たち使用人の中にも、押し倒された者はさすがにおりませんでした。彼は村祭りの準備責任者でしたから、蝶子さまとの打ち合わせの機会が多かったのです。事態を重く見た蝶子さまは、彼を準備責任者から外し、彼個人への仕事の依頼を取りやめることを決めました」
「ほう。では最近は幻燈館には出入りしていない?」
作品名:幻燈館殺人事件 後篇 作家名:村崎右近