幻燈館殺人事件 後篇
* 10 *
来島武人(くるしま たけひと)は、蜂須賀直哉の親友だった。
貿易商を営む父親の影響で幼少期を欧州で過ごし、帰国後に進学した大学で蜂須賀と同窓となった。
当時、二十二歳で世界の広さを体験している来島と、二十歳で血の気が多かった蜂須賀との差は歴然であったが、凡人からすれば二人ともに飛び抜けた存在であった。
二人の親交は、来島が留学を決めて蜂須賀と距離を置くようになるまで続いた。その期間が蜂須賀の人生観に多大な影響を与えたことは間違いない。蜂須賀が完敗を認めた人物は、後にも先にもこの来島武人しかいない。
来島の留学が目前に迫った頃、別段示し合わせたわけでもなく二人は顔を合わせた。
「そろそろ行くんだろ、武人」
「来週だよ、直哉」
相手を確かめるように、万感の思いを込めて名を呼び合う。
「元気でな」
蜂須賀はそれで終いにするつもりだった。到底語り尽くせぬのであれば、いっそ何も語るまい。それで良い。それが良い。
しかし、来島がそれを認めなかった。許さなかった。
「留学するのはな、直哉。お前に置いて行かれないためなんだよ」
「いきなりなんだってんだ。認めたくはないが、俺は武人の足元にも及んじゃいない。並び称される度に、悔しさと恥ずかしさで気が狂いそうだったぜ」
「確かに今はまだ少しだけ差はあるが、それは欧州で生まれたという地の利があっただけだ。そんな差はすぐにひっくり返されてしまう。正直、俺は直哉の才気に恐怖していた」
「過大評価ってぇのは気持ちいいもんじゃねぇな。せいぜい追い抜かれねぇよう、しっかりやってこい」
「ああ、恐ろしい恐ろしい」
来島は右腕を差し出す。
蜂須賀は差し出された手をしっかりと握り締めた。
「武人さーん」
二人の耳に届いた女の声。
特別な感情が込められたその声は、蜂須賀の後方から流れてきた。
来島は左手を挙げてその声に応える。
「胎に子がいるんだ。順番を間違えていると叱られたよ。父の仕事を少しでも任せてもらえるようになってからと考えていたが、戻ったらすぐに式を挙げることにした。それでも遅すぎるぐらいだがな。勿論、そのときは直哉にも参列してもらうからな。強制参加だ」
ぽん、と肩に手を置いて、来島は歩き始める。
来島の背を追って振り返った蜂須賀の視界に、光り輝く天女の姿が映った。
その笑顔は来島に向けられたものであったが、蜂須賀はそれより美しいものを見たことがなかった。
蜂須賀が性に対して奔放になったのは、これよりあとのことだ。
そして、蜂須賀のもとに結婚式の招待状が送られてくることはなかった。
*
左側にあった太陽が右側にある。
蜂須賀はその事実に驚きを隠せなかった。
「眠っていたのか」
蜂須賀の声を聞きつけた皆川が早足に歩み寄る。
「お目覚めになりましたか」
「ああ、戻っていたのか。何か捜査に進展はあったか?」
「特には何もないようですが、署長から遺体を引渡すように言われました。赤碕が足利の家に報せに行っています。戻るまでにはもうしばらく掛かるかと」
「遺体は足利の当主だと言っていたな。足利海運の社長はまだまだ現役だったと記憶しているが」
「そのことでしたら私が説明できます」
皆川は得意気に胸を張った。
「足利家には幾つか絶対の掟がありまして、その一つに、当主は村を離れてはならない、というものがあるのだそうです。それを回避するために、息子が生まれたらすぐに当主の座を譲るのだとか。こんな山奥では海運業を切り盛りすることは難しいでしょうから、苦肉の策といったところでしょうか」
「そこまでして守らねばならないものなのか。海運業で成功しているのだから、この村に拘る必要はないように思える。掟を破ったからといってどうなるものでもあるまいに」
「それがですね、蜂須賀さん」
皆川はごくりと生唾を飲み込んだ。
「祟りがあるらしいです」
「ほう」
「九条家が起こした転落事故、ご存知ですよね。あれは、九条の当主が掟を破って村を離れようとしたから祟られた、のだとか」
「九条大河と九条怜司か」
蜂須賀は、九条怜司が久瀬蓮司と名を変えて生きていることを知っている。知っているが、久瀬蓮司が九条怜司であることを証明する方法を持っていない。証明できなければ、それは事実として認められない。
「九条怜司の妻・代美もですね」
「当主以外も祟りとやらの対象になるのだな」
「だからこそ簡単には破れないのではないかと」
「怜司の娘である九条千代が健在な理由も分からないが」
「それは……そうですね」
皆川は反論の言葉を失う。
「祟りなどは存在しない。大方、貧しい村民から財産があることを妬まれでもして、村を出た山中で襲われでもしたのだろう。村民に襲われるから村を出るな、などとは言えないからな」
「蜂須賀さんは、祟りや伝承を信じないのですか?」
「むかしむかしで始まる昔話が全て事実だとでも?」
むかしむかし、ある山奥の村で、むりやり恋仲を裂かれた男が、父親を殺して恋人の女と都会に逃げましたとさ。とっぴんぱらりのぷう。
九条大河は殺された、九条怜司は生きている。それが事実。だが決して証明されることはない。
祟りが本物ではないことは明白だが、祟りそのものが‘ない’と証明する方法はない。悪魔の証明(probatio diabolica)。小さな矛盾をちくちくと突くしかない。しかしそんな揚げ足取りのような方法では、祟りの存在を信じる者を納得させることはできない。
「全てとは言いませんが」
「全てとは言わないさ」
蜂須賀は自分が苛立っていることを認め、その原因も把握した。
「では、坂上蛍の話はどうです?」
昨夜、宿の二階の部屋で坂上から聞いた内容はすでに伝えられている。
「伝承の内容と伝承が示している内容とは別物だよ」
「回りくどいですね。はっきり仰ってください」
「はっきりも何も、それ以上でもそれ以下でもない。伝承の内容と伝承が示している内容とは別物だ。個人が信じるかどうかではなく、事実かどうかだろう」
「では、事実だと思いますか?」
「分からん。判断材料がない。仮に事実であったとしても、九条千代の犯行を示す決定的な証拠にはならない。固執するのは止めるんだ」
「疑いがあるのは事実なはずです」
「だからだな」
蜂須賀は長く息を吐く。
「思い込みは止めろ。九条の粗探しをしてぇんなら、捜索隊に加わって山狩りを手伝やいい」
「す、すいません。そんなつもりでは……」
皆川はすっかり萎縮してしまった。
無言の時間がしばらく続き、赤碕が帰ってきた。
「ただいま戻りました。まもなく遺体を引き取りに来ます。使用人のお嬢さんに聞いたんですが、九条のお披露目が終わるまで葬式もできないんだそうですよ」
「できない? 九条は村の葬式の日取りにまで干渉するのか」
「いえ、村全体ではなくて、四家だけです。性格には九条を除いた三家になりますが」
「そういえば昨日も四家の関係がどうのと言っていたな。四家とは何なのだ?」
「足利家、深津家、壬生家、それに筆頭となる九条家を加えた四家です。村はこの四家が取り仕切っています。村長も別にいますが、重要なことは九条家が決めているようです」
作品名:幻燈館殺人事件 後篇 作家名:村崎右近