幻燈館殺人事件 後篇
「赤碕君。人が他人を殺す理由を考えたことはあるかな?」
「考えたことはありませんが、恨みや妬みや怒り、ではないかと」
「では、殺したい、と思う理由は何だろう?」
「同じ……なのでは?」
蜂須賀は茶を一口飲んでから、ふむ、と唸った。
「何…か?」とおそるおそる尋ねる赤碕。
「しばらく一人にしてくれるか。ゆっくり考えたいことがある」
「分かりました。食事の支度をしてますから、何かあれば呼んでください」
赤碕は返事を待たずにその場を離れ、蜂須賀はその重たい足取りを見送ったのち、縁側の外柱に背中を預けた。
ひんやりとした木の感触が服越しに伝わる。季節を考えるとやや薄着ではあるが、陽光が差しているおかげで肌寒くはない。唯一冬の午前中であることを主張しているのは、湯呑みの中で急速に冷めていくお茶だけだ。
「花明め…どこへ行った」
悪態にも似た言葉が意図せず口を突いて出たことに驚き、やはり調子が悪い、と独りごつ。蜂須賀はそもそもにして独り言を口にすることをしない。本人が自覚している通りにいつもとは違っている。平常の精神状態ではないということだ。
肘掛付きの椅子に深く腰掛けて目を閉じればすぐに平静を取り戻せるというのに。
蜂須賀は歯噛みする。苛立ちは雑念の入り込む余地を生む。悪循環に落ち込んだ蜂須賀は、思考を放棄した。この切り替えの早さは彼の長所の一つだ。
独り言が口を突いて出るということは、優先して思うことがあるということ。蜂須賀はそう理解した。だから、思うだけ独り言を口にすれば良いのだ。幸いにも、周囲には誰もいないのだから。
「花明め…どこへ行った」
仕切り直しだとばかりに同じ言葉を独りごつ。そのあとは口を突いて出るに任せた。
こんなところまで来て事件に巻き込まれるとはつくづく運のない奴だ。蜂須賀が独りごちた言葉を要約すると、そういった内容になる。
こんなところまでと言えば、女学生の坂上蛍もそうだ。花明に対して恋慕の情を抱いているらしいが、あまり相手にはされていないらしい。競合相手が多いのかもしれない。それらを出し抜くつもりだったのだろう。坂上の熱意には敬意を抱かざるを得ない。
最大の問題は花明の色恋沙汰に対する興味が劇的に薄いことだ。異性に対する意識はあるのに、当事者感がまるでない。向けられる熱視線に気付きもしていないのではないだろうか。
「言えた義理ではないな」
蜂須賀はくつくつと自嘲する。
花明と違い、蜂須賀は性に奔放だ。尤も、花明と比較すれば平均的であっても奔放に見えてしまう。
求められたならば応じるし、拒絶されたならば引く。特定の相手は作らない。そんな前提を掲げているおかげで、数年前まで異性問題での悶着が絶えなかった。
高級官僚という肩書きが安い女とお高くとまった女とを引き寄せたが、肩書きに抱かれたがる女には興味がなかった。そのうち周囲から結婚を促されるようになり、強引にお見合いを組まれることもあった。今日、まさにこの日はお見合いが予定されていた当日であったが、この日なら、と一旦予定を組ませておいてから、急用が入った、と白紙に戻している。
警察の仕事を理由に断れば表立って文句を言われることはない。官房付である蜂須賀には予定を把握し調整できるような直属の上司はいないから、根回しされることもない。仲人の回数を誇らしげに語る世話好きの間の手から逃れるには、これ以上はないほどの好位置にある。
だからこそ。
あの手この手でのらりくらりと避けてきたが、そろそろ年長者の顔を立ててもいい頃合かもしれない。どうとでも断る口実を作ることが可能な現在の立場だからこそ、縁談を受け入れることに意味がある。一つの目的を達成した今は出世や保身に興味はないが、反撃に備える意味では味方を作っておくのは必要なことだ。
妻を娶り、子を作り、家庭を持つ。そんな未来など想像も付かない。
なんとか思い描こうと苦心しているうちに、いつしか蜂須賀は寝息を立て始めていた。
作品名:幻燈館殺人事件 後篇 作家名:村崎右近