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幻燈館殺人事件 後篇

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* 1 *


 助教授・花明栄助の個室は、帝国大学民族学部棟の三階にある。
 室内は天井までもある本棚群に占領されており、初見の者は資料室と間違えてしまうほどの様相だ。
 片隅に置かれている応接セットは、粗悪な三級品である。とはいえ、手入れそのものは行き届いており、応接として最低限の役割までをも損なうものではない。尤も、部屋の主である花明を除けば、この部屋に足を踏み入れる者はほとんどいないため、応接として使用されること自体が非常に稀有な出来事となる。
 言い換えれば、応接としてではない用途であれば頻繁に使われているということでもある。
 室内には、規則正しい間隔を保ちながら机を叩く鉛筆の音と、本の頁を捲る際に発生する紙擦れの音とが共存している。
 一方は部屋の主である花明栄助のものであり、一方は花明の個室を我が部屋のように使う蜂須賀のものである。
 最近の蜂須賀は、花明の立てる鉛筆の音を傍らに、色だけは一級品のほうじ茶を啜りながら、読書に勤しむことを日課としている。
 用がないのなら帰ってください、と言われたならば大人しく帰るつもりはあるが、花明がそう言わないことを蜂須賀は十二分に知っているし、事実、花明自身もそんなことを言うつもりはなかった。
 二人の出会いから、すでに四年の月日が流れている。
 蜂須賀は三十四歳になり、花明は三十路になった。
 四年前の事件のあと、蜂須賀が出向から警保局へと戻ったことで、二人はしばらく疎遠になっていた。
 再会したのは、一ヶ月前のことだ。
 帝国大学の花明を訪ねた蜂須賀は、顔を見るなり再会の挨拶などすることなく、椅子を貸してくれ、とだけ言い、花明もまた、どうぞ、とだけ応えた。
 それから一ヶ月、珈琲と紅茶しか飲まなかった蜂須賀は、ほうじ茶の味を覚え、粗悪な三級品である椅子にも体を馴染ませた。今では世界で二番目に落ち着く場所となっている。
「花明、十分前だ」
 取り出した懐中時計に目を落としたまま、蜂須賀は花明に呼び掛ける。
 花明は数回ほどたっぷり躊躇してから、握っていた鉛筆を置いた。
「もうそんな時間ですか」
 花明は未練を断ち切るように自分に言い聞かせた。その声は明らかに憔悴しており、顔や立ち上がる仕草からも疲労の色が見て取れる。
「根を詰めれば良い物ができるという考えには賛成し兼ねるが」
 湯呑みを置く蜂須賀の顔には、微笑みがあった。
「仰る通りですよ。ですが、今回に限っては急ぐ事情があるんです」
「らしくないな。事前に計画を組んでいないとは。急遽代役でも任されたか?」
「いいえ。来週に数日ほど大学を空けるので、その分の時間を工面しなければならないのです。学生たちとの時間を削るわけにはいきませんし」
「ほほう。ついに念願叶っての実地調査か」
 蜂須賀は、仰々しく大袈裟に驚いてみせる。
 そのあまりの白々しさに、花明は微笑をこぼした。
「いえ、残念ながらそれはまだ。言われてみれば、もう随分と実地には行っていませんね。最近は教授も声を掛けてくれませんから、ここで本の虫ですよ」
 花明とて、自立し独自の研究を、と促されていることは分かっている。しかし、澤元嘉平の研究を手伝うことが最大の目的である花明には、そうそう受け入れられることではなかった。
「来週、幻燈館に行くんです」
「幻燈館? たしか九条の屋敷がそう呼ばれていたな。九条怜司に何か頼まれでもしたのか?」
「つい自分にだけ分かる言い方をしてしまいました。その……怜司さんは何度足を運んでも会ってくれません」
「会おうとしないあいつの気持ちも分かる」
「それにしても、よく幻燈館をご存知でしたね?」
「財界に関わる者なら一度は耳にするからな。それに、無関係というわけでもない」
「その節は――」
 それは、四年前の出来事。
 一人の男を助けることができなかった、蜂須賀と花明の二人が抱える傷。
 四年前、花明は真実を解き明かした。
 花明は大学の助教授であり、一般人である。そこから先は、警察官である蜂須賀の役割であった。しかし――
「止せ」
 蜂須賀は、頭を下げようとした花明を制止する。
 たとえ会釈程度のものであったとしても、蜂須賀はそれを受けるわけにはいかなかった。
 力が足りなかったのは蜂須賀だった。蜂須賀だけであった。
 四年前に二人が受けた傷は、種類が違っていた。
「九条怜司には娘がいるんだったな。誕生日の晩餐会にでも招待されたのか?」
 重くなりかけた空気の中、蜂須賀は努めて普段通りの声を出した。
「千代ちゃんですね。今年で十四になります。実は、彼女の後見人などという大役を仰せつかっていまして」
「おいおい。九条は財閥の創始者一族だぞ」
 蜂須賀は驚きの声を上げる。
 九条は国内屈指と言われる巨大企業の創始者一族である。
 傘下企業と関連会社の数は、個人が把握するにはあまりにも膨大であり、その多くは九条の手を離れ委託されているものの、九条が持つ総裁としての発言権は強い。
「なんでも、次期総裁としてのお披露目を行うのだそうで、後見人である僕に出席して欲しいと。後見人らしいことは何一つできていませんから、せめてこういうときぐらいは、と思いましてね」
 前総裁であった九条大河はすでに世を去り、その一人息子であり後継者であった九条怜司も公的な記録上では死亡している。九条大河には兄弟がいないため、相続権は怜司の子へと移っている。したがって、花明は九条の後継者の後見人ということになる。
「十四で次期総裁、ね。跡を継ぐはずだった九条怜司がいなくなった以上、その娘が候補に上がるのは当然のことなのかも知れないが……」
「すいません、蜂須賀さん。もう時間が」
「おっと、先生を遅刻させるわけにはいかないな」
 蜂須賀が手の中で遊ばせていた懐中時計を確認すると、すでに五分の時間が過ぎていた。
「やはりもう一つ質問していいかな?」
「構いませんよ」
 花明は律儀にも準備の手を止めて、聞く体勢をとった。
「今は誰が総裁を?」
「今は空席のままで、蝶子さんが代行を務めているそうです」
「蝶子?」
「怜司さんの奥さん、代美さんの妹さんですよ。鍵は一階に預けておいてください。それでは」
 そう言うや否や、花明はすでに用意してあった資料一式を小脇に抱え、早足で部屋を出て行った。
 かと思うと、すぐに戻ってきて、この続きは明日お話ししますよ、と言い残し、再び早足で去っていった。
「やれやれ。明日は顔を出す予定ではなかったんだがな」
 蜂須賀は、ほうじ茶のおかわりを作るために、体に馴染んだ三級品の椅子から立ち上がった。

 *

 空は青く澄み渡り、耳を澄ませば小鳥のさえずりが、目を閉じれば陽光の温もりが、それぞれが心を穏やかにさせてくれる。
 帝都からの鉄道に揺られ辿り着いた小さな駅。
 無人の改札の先には、雨風を凌げる程度には造られている待合があり、その中央を通り抜ければ、駅舎の外へと出ることができる。
「ここから三里ほど歩きます」
 インバネス姿の男――花明栄助は、短い旅路の同行者――蜂須賀直哉にそう告げた。
「随分と歩くのだな。噂以上の僻地だ」
 蜂須賀は駅舎からゆっくりと歩み出て、先に駅舎を抜けていた花明の横に並んだ。
作品名:幻燈館殺人事件 後篇 作家名:村崎右近