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幻燈館殺人事件 後篇

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* 序 *


 蜂須賀直哉は上機嫌だった。
 腰掛けているのが質の悪い安物の応接セットであっても、彼の機嫌を損ねるまでには至らなかった。
 その部屋は、壁面のほぼ全てが本棚によって埋められており、間取り上は充分な広さを持っているはずが、やや窮屈な印象を受ける。
 応接セットを取り囲むように設置された本棚は、高さが天井近くまでもあり、窓から差し込む日光を遮って、異様な圧迫感を醸しだしている。
 国の内外を問わずに小説や学術書を嗜む蜂須賀は、どちらかと言えば本が好きな部類に入り、本に囲まれているこの環境であれば、暇を持て余すことはない。
 今、彼の手元には一冊の本がある。
 重厚な装丁を施され、表紙に金字のアルファベットが綴られているその本は、誰の目に見ても舶来の品である。それは、周囲を取り囲む本棚から拝借したものではなく、彼が持参したものだ。
 つまり、彼が上機嫌であることは、現在の本に囲まれた状況であることとは一切関係していないということだ。
 近づく足音を耳に捕らえ、蜂須賀は読みかけの頁に栞を挟んで立ち上がった。
 窓の外には裸の木が風に吹かれる冬の風情があり、彼に午前中の冷たい風を思い起こさせた。
 ほどなく、蝶番の軋む音を背中に受けた蜂須賀は、帰室した白髪の老人へと向き直る。
「お待ちしていましたよ、先生」
 尊敬の念など微塵も感じさせない淡白さで発された声。威圧するでもなく懐柔するでもない、圧倒的無感情。
「蜂須賀君、だったかな? 二度と姿を見せるなと言ったはずだが」
 白髪の老人は、眼光鋭く蜂須賀を一瞥して、その脇を通り抜ける。
「ところがそうもいかない事情ができてしまいましてね」
「事情と言えば、部署を移ったそうじゃないか」
 互いに背中を向けたまま、足を止めて会話を続ける。
「ええ、官房付になりました」
「それは出世かね? それとも左遷かね?」
 官房付には、組織から与えられた仕事はなく、次の役職に就くまでの待機職という意味合いが強い。次の役職が栄転にあたるのか退職になるのかは、個人によって異なる。
「辞令が出たのは昨日の朝ですが、どなたからお聞きになりました?」
「はて、誰だったかな」
 勝ち誇ったように口角をつり上げてみせる挑発に対しても、蜂須賀は無感情を貫いた。
「実は、省内人事に口出しをする外部の人間がいましてね、ちょっとした問題になっていたのですよ」
「今、なっていた、と言ったか?」
「ええ。本日お訪ねしたのは、その件についてお話するためです」
「どういうことだ?」
「自首を勧めに参りました」
「自首だと? ふざけるのは止したまえ」
「残念ですが、身に覚えのない罪を被ることになるでしょう。数多くの役人たちが行ってきた不正、揉み消してきた事件、その他あらゆる不祥事を。ですから、そうなる前に権力の一切を放棄するのです。そうすれば、人間としての尊厳だけは保障される」
「なぜそんなことをしなければならん」
 老人の声から余裕が消えても、蜂須賀の声は無感情なままだった。
「結構な人数だったのですよ、すでに引退した貴方の傀儡であることに不満を抱く者の数が。名誉教授らしく振る舞っていれば、こうはならなかったものを」
「お前が炊き付けたのか」
「まさか。ご友人たちがこんな若僧の言葉に耳を貸すとお思いですか?」
「誰の命令だ」
「お答えできません」
 僅かな沈黙。
「ただで済むと思うな」
 老人の声は余裕を取り戻していた。それは感情を隠そうとするのを止めた証拠だ。
「もうすでに左遷人事を受けました」
「死なば諸共、か」
「被っていただく罪状について、表向きには全て貴方がおやりになったことになりますが、本人たちも報いを受けることになります。官房付は賑やかになるでしょう。個室が足りなくなるほどにね」
「空いた席をもらう約束でもしたか。血は争えんな」
 老人は鼻で笑った。
 同じ穴の狢だ、と。
「矢面に立つことの危険性を鑑みれば、妥当な対価だと思いませんか?」
「先に言っておく。利用されただけで終わるぞ」
「貴方の口から聞かされると、さすがに説得力が違う。しかしね、この件に限れば利用されても構わない」
「そこまで儂が憎いか、直哉」
「憎しみを抱いているのは事実だ。認めよう。ただ残念なことに、この件は俺の知らないところで動いていた」
 蜂須賀の声に感情が宿る。このやりとりにおいて初めての、そして同時に最後となる、感情が宿った言葉だ。
「自分の手で引導を渡せなかったから、救いの手を差し伸べたということか。確かに儂には最大の屈辱だ。だがお前はそれで満足できるのか?」
 すでに老人の声に力はなく、負け惜しみなどではない。
「どうでしょうか」
 蜂須賀の声は、無感情に戻っていた。
 廊下を伝って近づいてくる荒荒しい足音が二人の耳に届いた。
 それがこの部屋の主を逮捕するために訪れた刑事のものであることに疑いを挟む余地はない。
「罪を捏造せねば儂一人を追い落とすこともできんとはな。無能どもめ」
 白髪の老人は毅然とした足取りで部屋を出て行く。
 蜂須賀は、やはり無感情にその背中を見送った。
 扉越しに聞こえてくる刑事の声を意識の外に追いやるために、蜂須賀は窓の外に目を向ける。相変わらずそこに在る冬の風情は、蜂須賀に個人としての感情を取り戻すきっかけを与えた。
 そうして蜂須賀は、窓に映る自分の顔が僅かに歪んでいることに気付いた。
「アンタはやり過ぎたんだよ、父さん」
 遠ざかって行く足音に贈られた別れの言葉は、窓の硝子をほんの一時だけ曇らせた。

 蜂須賀直哉は上機嫌だった。
 憎しみを抱き続けてきた幼く愚かな自分と決別できたのだから。

作品名:幻燈館殺人事件 後篇 作家名:村崎右近