幻燈館殺人事件 後篇
* 6 *
「駐在所で休んでいたほうが良かったのじゃないか?」
皆川が言ったそれは、坂上に対する純粋な気遣いであった。
夜になれば気温は下がる。吐く息がほのかに白い。
「いえ、大丈夫です」
そう言いながらも、坂上は腕を抱いて寒そうにしている。
蜂須賀は二人のやり取りを横目に、黙々と歩を進めていた。幻燈館はすでに目と鼻の先にあり、敢えて急ごうと口にするほどの距離もない。
皆川が坂上に声を掛けたのも、その内容こそ坂上を気遣ったものであったが、幻燈館までの道中を一言も発することなく黙々と歩き続ける時間に耐え切れなくなったからだ。
蜂須賀は、特に目的のない世間話はしないし、その行為に意義を感じることもない。
蜂須賀にしてみれば、皆川や坂上とは通常の会話ができれば良いのであって、それ以上に親睦を深める必要がない。必要がないことはしない。ただそれだけのことだ。
皆川は、目上の者である蜂須賀に対して世間話を振れるほどの図太さを持ち合わせていなかった。そうして、何とかしてこの沈黙を打ち破りたいと考えていた皆川が、蜂須賀よりも話し掛けやすい坂上に白羽の矢を立てたというわけだ。
「……あの場所にはあまりいたくないのです」
「さっきもそう言っていたけど、どうして?」
「それは…その……」
坂上は言い淀み、顔を背ける。
「死体があるからだ」
皆川の問いには、蜂須賀が答えた。
「それもありますけど、それだけじゃないんです。その……駐在さんが怖いんです」
「赤碕が怖い?」
皆川は坂上の顔を覗き込む。
「私を見る目が…いやらしいというか……身の危険を感じるんです。だから、あの人と二人になるのは怖くって」
「考えすぎ……と言いたいところだけど、言われてみれば少し様子が変だったな。あれは女性として意識していたからなのか」
「考えすぎだと思うようにしていたのですが、お二人とは様子が全く違っていたので、急に怖くなってしまって……困っていたところを助けてくださったし、感謝してはいるんですけど……」
「赤碕の奴、感謝の気持ちを好意と間違えたのかもしれないな」
「やっぱり、何かで勘違いさせてしまったのでしょうか……」
「うーん。何とも言えないなぁ。問答無用で押し倒すようなことはしないだろうから、今日明日は我慢してもらえないかな」
「はい…でも、もしものときは助けてくださいね?」
「それは勿論」
上目遣いに言う坂上に、皆川は頬を赤らめていた。
そのすぐ脇で、蜂須賀はそっとため息を漏らした。
*
幻燈館に辿り着いた蜂須賀は、その俄かに慌しい空気に気付いた。
それ以前に、日も落ちた暗がりの中、カンテラを持った女性の使用人が、一人で門の外に立っている様子を見れば、大抵の者は何らかの異常が発生していることに考えが及ぶ。
落ち着きなく動き続けるカンテラの灯りは、誰かの到着を待っているというよりは、誰かを探しているように見える。
何者かが近づいてくることを感じた際に見せた期待と、それが蜂須賀であったと判明した際に見せた落胆は、その仮説を裏付けるものとなった。
「夜分に申し訳ない」
鉄柵の門前で落胆する使用人に向け、蜂須賀は躊躇なく声を掛ける。
「昼に一度お見えになった方ですね。花明さまはまだお戻りではないようですが、どういったご用件でございましょうか」
「先生…やっぱり……もどってない」
坂上の声は震えていた。
「花明に荷物を預けていてね。全部とは言わないが、せめて着替えだけでも持ち出させてもらえやしないかと」
「それはさぞお困りでございましょう。とはいえ、私には可否を決める権限はございませんから、蝶子さまに直接お尋ねください。私がご案内いたしたいところですが、玄関付近の者に改めてお申し付けくださいませ」
「随分と慌しいが、何かあったのかな? 昼間とは違う理由のようだが」
「申し訳ありません。私からお話しすることはできかねます。ご容赦ください」
使用人は、これ以上話すことはないとばかりに深々とお辞儀する。
「分かった。邪魔したな」
蜂須賀もそれ以上は何も言わず、傍で話を聞いていた皆川が拍子抜けするほどにあっさりと話を打ち切った。
玄関まで進み、改めて用件を伝え、しばらく待たされたあとに扉が開かれた。
幻燈館へと足を踏み入れると、外観と同じく黒で統一された内装を目の当たりにした皆川が感嘆のため息を漏らした。
「中へ入ったのは初めてですが、まるで別世界だ」
蜂須賀に対して投げ掛けたのであろうその言葉には、如何なる反応も返らなかった。
「蝶子さまのお許しがありましたので、お部屋にご案内いたします」
蜂須賀たちを花明の部屋まで案内したのは、若いというより幼いという形容が似合う、背の低い丸顔で童顔の使用人だった。
言葉や仕草がぎこちなく、先を歩く背中からは緊張が見て取れる。
「こちらのお部屋でございます」
童顔の使用人は、個室の入口とは思えない絢爛豪華な一枚扉の前でその足を止めた。
「蝶子さまより言伝をお預かりしております」
「聞こうか」
蜂須賀は慣れた口調で続きを促す。
「お話したいことがあるので、お帰りになる前に少々お時間を頂きたいとのことでございます」
「あぁ、構わない。先に伝えたように、着替えを取り来ただけだからな。こちらの用はすぐに終わる」
「では、蝶子さまに伝えて参ります。そのままお部屋でお待ちください」
深々と頭を下げた童顔の使用人は、足早に扉の前から歩み去った。
「あんな子供が……」
離れていく後姿を眺めながら、皆川がぽそりとつぶやく。
「人は見かけによらないからな」
蜂須賀は客間の扉に手を掛けて、それ以上の興味がないことを示した。
「そうは言いますけどね、蜂須賀さん。あの子は」
「言ってやるな。今現在、この幻燈館で何かが起こっているのは間違いない。人手が足りていないのだろう。なにやら話があるらしいが、余計な詮索はせず早々に退散しよう」
蜂須賀は、皆川に釘を刺しておくことを忘れない。
皆川にとっては、奇咲蝶子に探りを入れる絶好の機会。何とか食い下がろうと口を開き掛けたその刹那、ほんの僅かだけ早く、坂上が声を発した。
「先生…あの、ごめんなさい。私、その…お手洗いに行ってきます」
そうして坂上は、誰の返答をも待つことなく廊下を歩き始めた。
話の腰を折られてしまった皆川は、しかしそのおかげで冷静にもなれた。
「蜂須賀さんがそう仰るのなら」
皆川は蜂須賀の背中を追って客間に足を踏み入れる。
天井にはクリスタルガラスのシャンデリア。足元には深紫の絨毯。壁には美しい花畑が一面に広がる絵画。色味による視覚的圧迫とは別に、その豪華絢爛さを初めて目の当たりにした者は、圧倒されて足を止めてしまう。
立ち尽くす皆川を余所に、蜂須賀は部屋の中央まで進むと、ぐるりと室内を見回した。
室内を飾る調度品はどれも一級品。清掃も行き届いている。隙の無い完璧な、と言えば褒め言葉だが、残念ながら庶民にとっては萎縮の対象である。
寝具に一切の乱れが無いことを確認し、蜂須賀は、ふむ、と唸った。
「彼女、大丈夫ですかね?」
作品名:幻燈館殺人事件 後篇 作家名:村崎右近